村上帝崩御の数時前。
 御門の寝所である清涼殿から少し離れた庭先に、何やら思案深げに漆黒の空を見上げている男がいた。
 今東宮憲平である。
 その双眸は晴天の空に浮かぶ下弦の月へと向けられてはいるものの、その光りを映してはいない。
「父上……」
 狂気に犯されていると言われている者にしては似つかわしくないその眼光。今にも一粒の水滴が零れ落ちるのではないかと思われるその瞳。
 もしこの場に人がいたのなら、憲平に対する考えを一転させてしまったに違いない。
 はたして狂気の持ち主が親の死に際に涙を流すものなのだろうか、と。
 そして、その双眼の輝き。
 これほどまでに澄んだ瞳を持つ者が、狂気に犯されているものなのだろうか、と。
 その様子を見ていた者が居たとしたならば、皆が皆こう答えるであろう。
『否』
 そして、それは真実でもある。
 憲平はけっして物狂いではない。
 物狂いとしての仮面を被っているだけなのであった。
 だから今、誰もいないこの場所で、こうして真実の姿をさらけ出しているのだ。
「まもなくです、父上。もうまもなく、我らの念願は成就されるのです」
 苦心の選択であった。
 今、親の死に目に立ち会う為その仮面を取去るべきか、それとも外さざるべきか。
 己のすぐ傍らで親が死に瀕している。普通ならば考える必要も無い事であるが、しかし憲平にしてみれば、いや、憲平と村上帝にしてみればその答えは決まっている。
「未だ、時、満ちたりず」
 憲平が生まれついた時より始まったこの策略。
 村上帝が何によりも隠し通そうとした計画。
 たとえ己が死んでしまうにしても、時が満ち足りる前にこの事を暴露する訳にはいかない。今までの十七年を棒に振る訳にはいかないのだ。人として扱われなかった十七年。その苦労を、苦労を負わせた張本人の死によって無かったものとする事は出来ない。
 憲平の心内に誰にもぶつけようの無い怒りが湧き起こる。
 そして、どうしようもないほどの悲しみが吹きこぼれる。
 しかし、涙する事は出来ない。たとえ誰に見られるわけでもないにしても、それだけは己の矜持が許さない。
「泣きたければ今しかありません。これからは泣く暇など無くなってしまうのですから」
 ふと傍らから聞こえる男の声。
 憲平は慌てて声のする方へと顔を向けた。
 深々とした緑を身にまとう古い桜の木の下に立つ男の影。
「何奴!」
 厳しい口調で誰何するも、その者は悠然と憲平の前へと姿をあらわした。
「お初にお目にかかります。私は陰陽師、安倍清明と申す者。以後お見知りお気を」
 涼しげな態度で優雅に一礼をすると、清明は、
「何とぞお静かにお願いいたします。私は本当のあなたとお話する為に参ったのですから」
 機先を制し、この月明かりにも負けぬほどの透通った笑みを浮かべた。
 東宮に対する言葉遣いも、現れ方の奇怪さも何もかもを忘れさせるような透明な、無垢な笑顔。
 物腰の穏やかさ、そして何よりも、まるで神の使いのごときその美しい顔立ちに憲平は魅了されつつも、同時に更なる訝しさを感じるのであった。
「どこから入ってきた?」
 口調は幾分穏やかにはなっているが、しかし未だ警戒を解いてはいない。
「何やら泣き声のような物が聞こえてまいりましたので、あちらの方からやってまいりました」
 警戒されている事にまるで気がついていないかのようにその指先を北の空、北辰へと向ける。
「何を、馬鹿な……」
 何やら心の内を見透かされたようなその言葉、人を小馬鹿にしたようなその態度も、しかし神々しいまでの光を放つ者が行なえば真実に思えてしまう。
「はい、ほんの戯言です」
「なっ!」
 僅かばかりでもこの男を信じたのが馬鹿であった。平時であれば戯言を言うも聞くも好みではあったが、それも時によりけりである。このような夜更け、しかも御門が危篤であるこの時に、そのような戯言に付き合っていられるほど憲平はお人よしではない。
 改めて人を呼ぼうかと息を吸い込んだ時、
「戯言では有りますが、しかし、あなたの本当の姿を知っていると言うのは嘘ではありません」
 吸い込んだ息がため息となり口から吐き出される。
 こうもまで絶妙に間を外されれば、恐らく誰でもそれ以上誰何する気を失せるに違いあるまい。そして、その多分にもれず憲平にしてもそうであった。
 しかし、何かを言わなければならない、そんな思いがこう表現される事となる。
「本当の姿、か。おまえに俺の何が解っているというのだ?」
「人を欺く為の仮面。その下にある優しき苦悩。それと、あなたが悩んでいる事に対して少しばかり……」 
「初めて会ったと言うのに、良くそこまでわかるものだな」
 人の心を解る者などこの世にはいない筈だ。たとえいるとしても、それは長く付き合った末に初めて解るのであろう。まして、自分は今まで狂気と言う仮面をかぶり、人の目を欺き通してきたのだ。初めて会う者にその心がわかるわけが無い。
 皮肉の色濃い口調で憲平は言ったつもりであったが、しかし清明は涼しげな顔のまま、
「お褒め頂き、光栄です」
 さらりとそう言ってのけるのであった。
「おまえは……馬鹿か?」
「さぁ……?」
 微笑を絶やさぬその口元。
 しかし、もしかするとこの男も自分と同じように仮面をつけているだけなのかもしれない。もし仮面をつけているのだとすれば、この男の真の顔とはどのような物なのであろうか……。
 本来ならばこのような男の相手をする必要など無い身であったが、しかし憲平は人を呼ぶ事も自分からこの男の前を立ち去る事も出来ずにいた。
「今宵の空は、まるでこれから起こる事を示しているかのように儚く、悲しい」
 まるでそこに誰もおらず、ただ独り言を言っているかのような淡々とした、しかし、奥に潜む激しい感情を僅かばかり表した声。傍らにはその声に引き込まれそうになりながらも、勤めて平静を装う憲平の姿。
「藤原一門がこの所、頓に勢力を増しているようですが」
「そのようだな……」
「東宮はそれで良いとお考えですか?」
 事の核心を突く、その問。
「……そのような事、俺には解らん」
「解らないとおっしゃられる?」
 くぐもった笑い声が、その端正な口元から零れ落ちる。
「……失礼、まぁいいでしょう。では、これから起こるやも知れぬ事についてはいかがです?」
「これから起こる事など、なおさら俺に解るはず無かろう」
「そうですか?」
「これから起こる事、と言うのが解れば、誰も苦労などしないだろう」
 清明は一つ長い溜め息をし、軽く頭を左右へと振ると、
「陰陽道とは便利なようでいて実に厄介な物であります。例えば、天に映る星を見、事の吉凶を占い、暦を作り、凶事を予言する、これ全て陰陽の技のなせる所であります。真、施政者にとっては便利な物でございますが、しかし、卓越した技を誇る陰陽師達は表へとはあまり出たがりません。どうしてかおわかりですか?」
「俺に解るはずなからろう」
 先程から同じ事ばかり繰り返していると言うのはわかってはいたが、その言葉以外にとっさに思いつく物が無い。
 もしかすると自分こそが馬鹿と見られているのでは有るまいか。
 ふとそんな考えが頭の中に沸き起こったが、しかし清明はと言えば、にこやかに微笑んだまま、
「それは、その道を極めた陰陽師はそのほとんどが他の者の心内を読み取る事が出来てしまうからです。いえ、読み取ろうとしてでは有りません。自ずと、自然にその考えが心の中へと流れ込んできてしまうのです」
 ともすれば危険極まりない発言を平然とする。
「それでは、陰陽師達の所へ忙しなく通っている公家達は皆その心内を読まれてしまっているのか?」
「いえ、先ほども申しました通り、人の心内まで読み取れるのはその道を極めた者だけの事でございます。そして、 そう言った陰陽師はこの都には幾人と居りますまい」
「……で、お前はそのうちの一人だとでも?」
「その通りでございます。だからこそ、あなたが藤原の者をどう思っているのか、これから先何を行おうとしているのか、私には解ってしまうのです」
「しかしそれを今急に言われ、すぐに信ずる事も出来まい」
「ならば、それを証明いたしましょう。私は今からあなたの思っている事を口にします。それを聞いて事の判断をしてみては?」
 願っても無い事であった。
 ここまであまり乗り気ではなかったが、しかし憲平も陰陽道、いや、今巷で噂されている安倍清明と言う男に幾らばかりかの興味はあったので、その力を試してみたいと思っていたところであったのだ。
「いいだろう。俺の考え、見事に言ってのける事が出来たのならお前を信じても良い」
 もし、全く見当外れの事を言ったのならば、すぐにでも人を呼べば良い事であったし、もし万が一にでも自分の心を言い当てたのであれば、それならば、使い道がある。
「では……」
 その言葉が別の世界への入り口だと言う事にまったく気づかないままに、憲平は先を促すようにゆっくりと頷いたのであった。

 

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