下弦の月が、昨日よりその輝きを少しばかり曇らせ漆黒の天空に浮かんでいる。
 庭園のいたる所に植えてある多種多様な木々が静かに風になびき、葉を揺らせ人外の言葉を発している。
 しかしそれ以外には全くと言って物音の無い、静まり返った都、平安の内裏内。
 全てが悲しみで埋め尽くされている。
 日中、天皇を黄泉の国へと送り出す儀式はしめやかに、滞り無く行われた。
 その葬送は文芸を好み華やかな事を好んだ天皇にしてはあまりにも静かな、味気ないと言っても良いほどのものであった。
 しかし見送る者、参列する者は多勢を極めた。
 公家連中ばかりではなく、商人や農民、老人から子供まで、果ては浮浪者風情の者までが天皇の死を悼んでいた。
 殿上人以外は葬儀に直接立ち会える訳ではない。その他の者達は皆内裏の、門の外で天皇の死を悲しみ、天皇の冥福を祈っていた。
 日が落ちるまでは、悲しみに打ちひしがれた都人達の声が途切れることなく外から聞こえてきていたが、今は全くの静寂があたりを包み込んでいる。
 しめやかさを引きずったままの内裏内。
 殿舎のいたる所から押し殺された女達の嘆きの声が聞こえる。
 いたる所から、涙をこらえる男達の気配が感じられる。
 しかしながら、静かな夜であった。
 皆が皆、今は亡き天皇を憚り、息を潜めその冥福を祈っている。
「静かだな……」
 静寂に包まれた内裏内に、小さいながらもはっきりとした声を発する一人の男の姿があった。
 もちろんこのような時だとしても活動する者は幾らでもいる。
 内裏内を警護する近衛府の者達や検非違使、衛門の者達などである。
 都の、内裏内の安全と天皇の崩御とは全く関係がない。
 これらの府に使える者達は、たとえ天皇が死んだとしても己の役目を疎かにする事は出来ないのであった。
 しかし、それ以外にも闇にまぎれて動く影がある。
 憲平である。
 その影はゆっくりと、しかし近衛の者に見つからないように注意を払いながら自分の妻、懐子の下へと向かっていた。
 時は深夜、すでにほとんどの者は深い夢の中へと旅立っている時刻である。
 しかし、それでも憲平は懐子の下へと向かう。
 いや、向かわなければならないのである。
 何故かと言えば、それは今この時を逃せば己の本当の姿をさらけ出す事は出来ないと思ったからだ。
 父が、天皇が死んだ今しか、懐子に自分の妻に本当の事を言う機会は無いと思ったからだ。
 焦りが、苛立ちが、悲しみが、そして清明が言った、
『懐子を失う事になる』
 という言葉に対する恐怖が憲平を突き動かしているのだった。
「静かだ……」
 もう一度、今度は先程より少し大きな声で、しかし、自分にしか聞こえぬほどの声量で口に出してみる。何か言葉を口にしていなければ、今自分がここにいる事さえ夢の事であるように思われてしまうからだ。
 天皇が死んだ。
 藤原一門はそれを糧に更なる勢力を手にしようとしている。
 全ての事が、まるで夢の中の出来事であるかのようだった。
 いや、もちろん夢でない事は憲平自身重々承知している。
 だからこそ少しでも、一人でも多くの味方を手に入れるため自分はこうして懐子の下に向かっているのだ。
 ……しかし、本当にそれだけの理由なのであろうか。
 数多くの味方を手に入れたい、ただそれだけの理由で懐子の下へと向かっているのだろうか。
 解っていた。
 それだけではではないと言う事は、解っていた。
 そう、それだけではない。
 懐子の事を愛しているから、これ以上自分の大切な物を失いたくないから、懐子の下へと向かっているのだ。
 ふと足を止め、空に浮かぶ星々を、そして、鈍く輝く下弦の月を見上げた。
 近くの殿舎から誰かしらの泣き声、女の泣き声が聞こえてくる。
 父の、天皇の女御の物であろうか。
 押し殺したその泣き声。
 耳を済まし聞いてみると、女の近くからそれをあやすようになだめる他の女の声も聞こえる。
 そのなだめる声は、悲しみであろうと憎しみであろうと何もかもを全て包み込むかのように優しかった。
 早く懐子の下へと向かわなければ行けないと言う事は解っていたが、憲平はその声に少しの間耳を傾ける。
 震えた声。
 涙の混じった声。
 恐らく今、この内裏内にいる者全てが天皇の死を悲しんでいるはずであろう。しかしその女、女御付きの女房であろうか、その者は悲しみを押し殺し、己の主人をなだめ、励ましている。
 威勢の良い声で、必死に主を勇気付けている。
 何を言っているのかはよく聞き取れなかったが、しかしその声を聞いているだけで憲平も勇気付けられたような気がした。
 己の主にだけ向けられている励ましではあったが、他に聞いている者に対しても、いや、憲平に対しても勇気を与えるほどの心強い声。
 そう、今はまだ立ち止まる時ではない。
 少しでも、一歩でも先へと進む時なのだ。
 憲平はまた歩き出す。
 懐子の下へと。
 泣き声と、それに対する励ましの声を背にしながら、暗い道を歩く。
 段々と遠ざかってゆく声達。
 それからさほども歩かぬうちに、懐子のいる殿舎が見えてきた。
 他の物と比べると少しばかり小さい建物であった。
 すでに中の明かりは消えている。恐らく皆眠りについているのであろう。
 憲平はそっと足音を殺しながら近づいた。
 懐子が眠っているはずの殿舎へ。
 最愛の者が眠っている、部屋へ。
 そして、少しばかり他とは違う、手の込んだ格子戸の前で憲平は立ち止まった。
 庭先からでも、月明かりの中でもよくわかる、何度も訪れた、見覚えのある格子戸。
 懐子の部屋である。
 憲平はそっと格子戸を叩いた。
 静かに。
 小さく。
 誰にも、懐子以外には気づかれぬように。
 そして、待つ。
 どのくらいの時が過ぎたのであろうか。
 憲平にしてみれば長い時間であったような気もするが、実際の所はそんなに時は経っていなかったのであろう。しかしあまりにも無反応であったので、もう一度戸を叩こうかと思ったその時、
「誰です?」
 中から聞き覚えのある声、懐子の声が聞こえてきた。
「俺だ」
「どちらの俺、様で?」
「憲平だ」
 格子戸がゆっくりと開く。
「こんな夜更けにいかがなされました?」
 先ほどまで恐らく眠っていたであろうにもかかわらず、その身なりは恐ろしいまでに整っている。
「少しばかりお前と話がしたくてな……」
 それでは、と、格子戸を開け憲平を中へといざなった。
「皐月とは言えまだ夜は冷えまする、さ、どうぞ中へ……。今何か温かい物を持って来させましょう」
 そう言って隣へと続く違戸を開けようとした懐子の手を、憲平はそっと取った。
「いや、他の者を起さないでくれ」
 その言葉に一瞬訝しげな表情を浮かべたが、何かを感じ取ったらしく懐子は黙って一つ頷き、戸にかけた手を戻した。
 昼間、いくら春の日差しが心地よく室内をあっためていようと、板敷きの間ではそのぬくもりも夜には消えうせてしまう。足の裏からじわじわと板の冷たさが染み込んで来る。
「お寒いでしょう。どうぞこの上へ」
 先ほどまで懐子自身が使っていた褥へと移動する二人。
 燭台はあるものの、すでにその火は消されていたため明かりと言えば外からこぼれ入る月明かりのみと言う薄暗い室内で、二人はおぼろげに浮かぶお互いの顔を眺め見ている。
「して、わたくしに話とは?」
 隣に控えているはずの女房を意識してか、その声はよく耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さい。
「うむ……」
 自分の真の姿を話す為にやっては来たものの、しかし、果たして本当に暴露してしまっても良い物なのかどうか、ここに来て憲平の心に迷いが生じる。
 懐子を愛している事は間違い無い。懐子を失う事に対する恐れも、本心からの物である。しかし、果たして本当に懐子が自分の味方となってくれるのであろうか……。
 思考の最中、ふと自分の掌をそっと包み込む温もりを感じた。
「いかがなされたのです?」
 穏やかな息遣いまでもが聞こえてきそうなほどに近くから聞こえてくる、小さな声。
 優しさが、温かさが、希望が、信じる心が包まれた手を通して伝わってくる。
「そうだな……」
 迷ってはいけない。
 立ち止まってはいけない。
 そして、自分に温もりを与えてくれるこの稀有な人を失うわけにはいかないのだ。
「懐子、俺は、お前に嘘をついていた」
 自然と口をつく言葉。
 その言葉から、たった一人のためだけに語られる長い懺悔の唄は始まりを告げた。
 自分の付けている仮面の事。
 なぜ、その仮面を付けなければいけなくなったかと言う事。
 前の天皇、父親の残した計画、今の藤原氏の勢いは天皇家にとって脅威であると言う事。
 昨日会った安倍清明と言う男の事。
 その男との会話の中で気がついた、今やらなければいけない事。
 失いたくない物、懐子の事。
 愛していると言う事。
 心の底から愛していると言う事。
 心の内から次々と言葉がつむぎ出される。
 懐子は黙ったまま、懺悔の、真実の言葉に耳を傾けている。
 そして辺りがうっすらと白み始める時刻となり、ようやく憲平は全てを語り終えたのであった。

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