七
「為平殿ではなく守平殿を次の東宮に、だと?」
内裏にほど近い、大炊御門烏丸にある藤原実頼邸での事である。
その奥まった一室に、薄暗い燭台の明かりにゆれる六つの影があった。
「お前達、本気で言っておるのか」
訝しげな表情で目の前に座る四人をながめ見る、実頼。
「我ら四人、考えた末の事でございます」
事が事だけに、さすがに少しばかり緊張した面持ちで師尹が言うと、部屋の端、四人の後方にある妻戸に寄りかかっていた貴公子然とした男、頼忠がうっすらと笑いを浮かべた。
「しかしそのような事、許されるわけがあるまい」
苦虫を噛み潰したような表情の実頼。
「許す許されないの問題ではないと言う事は、兄上ほどのお方であればよく解っておいででございましょう」
「もし為平殿が東宮とおなりになられれば、叔父上殿は高明殿に潰されてしまいますぞ」
師尹の後を継いだ兼道の言葉に、間の抜けた沈黙が部屋の中を満たす。
この言葉、実頼を説得するにはあまりにも的外れなものであった。
しかしその事に気がついていないのは発言した本人、兼道だけである。
「……兼道、わしは己の欲の為に出仕しているのではないのだぞ」
「兼道、兄上はそのような事を気になさるお方ではない」
諭すように言う実頼と、呆れた感を滲ませた師尹の言葉がそれに重なる。
頼忠はなんとか笑いをこらえるのに必死になっている。
伊尹と兼家は自分の兄弟の失言に、押し殺した唸り声を上げた。
しかし、兼道は未だ自分の犯した失態に気がついていないらしい。
頼忠の笑い声に、兄と弟の唸り声に、師尹から向けられている白い目に、そして、小馬鹿にしたような実頼の態度に憮然とした面持ちとなるのであった。
「兼道殿、もし父上がそのような事を気にする方ならば、その才を持ってしてすでに太政大臣にでもおなりになっていたであろうよ」
なんとか笑いを押さえこみ頼忠が言うと、
「兄上は人との和を大切にするお方だ。高明殿との間柄も非常に上手くいっているのだぞ」
呼応するかのように師尹も言う。
人との和を大切にし、序列を重んじる。
有職故実に精通し、またそれを滞り無く実行していた男、それが実頼と言う男である。
そのため、と言う事なのであろうか、非常に厳格な人物であり、また、政敵というものがまったくいないという、この時代にしては真に稀な人物であった。
もちろん、高明との関係も師尹が言うように友好的と言ってよいほどのものを築き上げていた。
「もちろんのこと、兄上と高明殿との関係はよくわかっております。しかし、事は藤原家の浮沈にかかわる事でありますれば、もう一度よくお考えになられて下さりませぬか」
兼道が頼忠達の言った言葉の意味を考えるため口をつぐんだ事を機に、話をもとへと戻す師尹である。
確かに藤原家としてみれば、今は非常に難しい時期と言えよう。
表立って楯突く者をみな排斥し、まもなく全ての権力が藤原と言う一つの家系に集約されようとしてはいるが、しかし、未だにそれを阻もうとするやからも少なからずいる。そして、その者達が今右大臣源高明の下へと集結しているらしいのだ。
高明と言う男は能力的に見ればこれと言って何も恐れる要素が無い、ごく普通の人物である。
しかし、その血統、その人脈の広さは今や飛ぶ鳥を落とす勢いである藤原家にとっても脅威となりうるものであった。
血統と人脈が交じり合い機会を得た時、恐らく高明本人の意思とは関係無く藤原家への苛烈な攻勢が始まるであろう。
そうならないためにも今、藤原家にとっては高明に権力を持たせない事が大切なのであった。
師尹などに言われるまでもなく、その事は実頼にもわかっていた。
そして、守平を東宮として立てる事がどれほど有効的かという事も、わかりすぎるほどにわかっていた。
「だが……」
いくら有効的だとはいっても、そのような事をしてもよいものなのであろうか。
自分の守ってきた物に反する行動となるのではないか、その思いが実頼にのしかかって来る。
「兄上、どうか藤原家の事をお考えくださいませ」
師尹の一言が深く胸へと突き刺さってくる。
朋友としての立場を取るか、それとも藤原の氏長者としての立場を取るか。
長い静寂が室内を襲う。
緊張と言う名の鎖が、場全体を締めつける。
ここにいる誰もが、実頼の次の一言を待っているのだ。
いや、この世界の全ての者が、次の言葉を待っているのかもしれなかった。
長い沈黙。
しかし、永遠という物はこの世に存在しない。
「……わかった、お前達に乗ってやろう」
その一言が運命の歯車を動かす鍵だとはつゆとも知らぬままに、実頼は承諾の旨を口にした。
話を持ってきた四人の表情が見る間に安堵のそれへと変わっていった。
妻戸からは、僅かに驚きの混じった溜め息が聞こえる。
「いや、兄上、ありがとうございます。では、明日参内なされた時にでも……」
「この事をいつ切り出すかについては、わしが考える。お前達は黙ってみておれば良い」
さすがに全てを師尹の思惑通りにさせるわけにはいかない。事が事だけに、実頼には藤原家のほかに、朝廷内の人間関係を考えなければならなかった。
そのための根回しをする時間、考える時間が必要だったのである。
(さすがに、兄上を操ろうとなどとは、無理であったか)
ひとまずは思い通りに話が進みはしたが、やはり全てを自分の思うがままにする事は叶わなかったらしい。
師尹は内心の悔しさを隠し、
「承知しました。では、よろしくお願いいたします」
そう言うと他の三人を促し、実頼の前を辞するのであった。
「父上、いいのですか?」
四人の足音が遠ざかり、聞こえなくなったのを確かめると、未だ妻戸に寄りかかったままでいた頼忠が、頭を垂れ物思いに耽る実頼に言った。
「あの連中、これだけでは収まりませんぞ」
「……わかっておる」
氏長者としての立場を取ってしまった実頼。
「それ以上は、高明殿に手を出させはせんよ……」
今はただ、そうとしか言えないのであった。
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