嵐、前夜
一
時は過ぎる。
それぞれの思惑を秘め、時は流れる。
それから一月あまりの時が過ぎた。
憲平即位の日。
たとえ年若き者であろうと、狂気と言う物に犯されている者であろうとも、何人たりとも即位の儀を経なければ天皇となる事は出来ない。
憲平にしても、そうであった。
だから今、一生に一度しか行なわないであろうこの場に、即位の儀に臨んでいるのであった。
今東宮憲平の即位の儀は、村上天皇の喪が明けると同時に執り行われる事となった。
未だ前天皇の死を引きずりながら執り行われる儀式。
誰も期待などしていない男に対する、儀式。
この儀式に参列している者は皆、憲平に注目などしてはいない。
実権を握れぬ天皇などに、誰も興味など沸かない。
では今ここにいる者達の興味は、誰に向かっているのであろうか。
源高明、藤原実頼。
好奇の眼差しそのすべてが、この二人に向けられているのであった。
果たしてどちらが次の天皇を操る事となるのか?
それだけが、この場にいる者達の関心事であった。
(わかってはいたが、望まれぬというのもつらいものだな)
その中でただ一人その二人に好奇の眼差しを向けず、淡々と儀にのぞむ者がいた。
憲平である。
この場で最も注目されなければいけない人物であるはずなのに、誰一人として自分を見ている者はいない。
いや、見ている者もいるにはいるが、その意識はあの二人、高明と実頼に向いているのだ。
口元がうっすらとゆがむ。
(茶番だな……)
名前だけの天皇。
力の無い自分にむけた、冷笑。
しかし憲平が何を思おうと、参列している者達が何を考えていようと儀は進む。
そして、いくら茶番であろうとも時は流れ、終焉は訪れる。
事全てをなし終え、憲平はゆっくりと立ちあがり参列者達の方へと向き直った。
一斉に頭を下げる参列者達。
新たな天皇、望まれぬ天皇の誕生であった。
憲平が天皇となって初の参議での事である。
「……実頼殿、今なんと申された?」
時が止まった。
静かな緊張が室内に訪れる。
誰も口を開こうとしない、いや、開けない。
憲平さえも、その言葉の意味を把握するのに数瞬かかったほどである。
高明にしても、何を言われたのかよくわかってはいなかったのであろう、不思議そうな顔で実頼に尋ね返した。
「次の東宮には為平殿ではなく守平殿を、と言ったのだ」
その問いに無表情な声で答える実頼。
場がざわつく。
時が動きだす。
その場にいた他の者達にも実頼の言っている事の意図する意味がわかったからだ。
しかし、唐突にそのような事を言われても、すぐに反論する事は出来ない。
藤原と名のつく者以外には時間が必要であった。考える時間が。
「そ、そのような事、まかり通るわけ無いであろう!」
少しの間を置き、高明が口を開いた。
例え考えがまとまったにしても、藤原家に正面きって反対できる者は少ない、いや、皆無と言っても良いほどである。この中で唯一実頼に反する事が出来る者がいるとすれば、それは彼しかいないのであった。
しかし、とても冷静といえるような状態ではなかった。
その声は怒りに震え怒鳴り声となり、顔は真っ赤にそまり、握ったこぶしはかすかに震えていた。
「まあ、少し落ちつきなさい、高明殿。それに、まかり通るかどうかは我等が決める事ではなかろう」
このままでは話にもならないと思ったのか、少しばかり口調を和らげ実頼が高明を諭すようにそう言うと、高明にも未だ議論の余地がある事に気がつき、落ち着きをいくらか取り戻し、
「それはそうだが……では、いったい何故、なのだ?」
その理由を尋ねる。
実頼に向けた問いではあったが、しかし、実頼が答えるより早く口を開く者がいた。
「無論、あまり外聞の良い事ではありません。しかし、最近聞き及びました所によると為平殿の周囲に何やら今上の千代を乱す考えを持つ者がいるとの事。もちろんそのような者が本当にいるのかどうか、はたまた、全く持ってねもはもない事なのか、我々も調べてはおりますが、その噂、すでにそうとうに広がっておりますようなので、これならば未だ噂も何も無い守平殿を東宮へと立てた方がよろしいのではないか、と思ったわけであります」
よどみ無くそう答えたのは、端のほうに座っていた師尹であった。
「師尹、口を慎め」
突然話しに割り込んできた師尹を、実頼がたしなめる。
しかし師尹が発言した事により、守平立東宮の話は藤原家の総意であるという事がこの場にいる全ての者に伝わったという事も、また事実である。
そして、その事によって更に守平立東宮は現実性を帯びてくるのであった。
藤原家を敵に回しては勝ち目が無い。
それが今の公卿達の考えであったからだ。
しかし、高明はあきらめない、いや、そのような意見を通す事は出来ないのであった。
もし守平が東宮になってしまったなら、高明の立場が危うくなるからだ。
村上天皇無き今、自分の立場は自分で守るしかない。
今までは村上天皇が何かと高明を守ってくれてはいたが、今はもうその庇護を受ける事は出来ないのだ。
だから、今の立場を守るためにはどうしても為平に東宮となってもらわなければならないのであった。
東宮の後見人となる以外に、高明には今を守るすべが見つからないのであった。
「しかし、噂ごときで為平殿を廃しようなどとは少し度が過ぎるのではないか!」
そしてもう一つ。
事実は違っていたとしても、そう言った噂が流れているという事は、その後見人である高明にも疑いの目が向けられるという事だ。
だから、なおさら許すわけにはいかない。
「実際、噂だけでもない所がある」
実頼は場にいる者達を刺すような目つきで見渡した。
もちろんその中には師尹も、伊尹も含まれている。いや、この二人を睨みつけるために全ての者を見渡したといっても過言ではない。
「今上の千代を乱そうと考えている者がいる事は事実だ。その者達を黙らせるためにも、今は為平殿ではなく守平殿を東宮とするべきであると、わしは考える」
一見高明を諭しているかのように聞こえはするが、その実は、師尹らに対する忠告であった。
「しかし、それでも……!」
「もうよい」
さらに何かしらの反論を言おうとしていた高明であったが、御簾の影からの一言で、口をつぐまざるをえなくなった。
この日、初めて口を開いた天皇。
そして、次の一言が恐らく全てを決するであろう事を皆がわかっていたために、誰もが御簾の中に注目し、言葉を待つのであった。
「この件、実頼に任せる」
決定的な一言であった。
藤原の天下に近づく一言である。
しかし、天皇の言葉は絶対なのだ。
高明はなおも何か言いたそうであったが、それを聞こうともせず憲平は立ちあがり、
「ではそのようにはからえ」
そう言うと、一人先にこの場を去って行くのであった。
(これで良かったのか?)
心の中でそのような疑問が沸き起こる。
(たしかにあのまま行けば高明はまずい立場へと追い込まれる事だっただろう。しかし、それならば、俺が守ってやれば良かったのではないか?)
渡り廊下を歩きながら、憲平は考える。
(しかし、そうすると今度は自分の正体をさらけ出さなければならない事になる)
守るためには狂気の仮面を脱ぎ捨てなければならない。
(そう、これで良かったのだ。父上の死に際でさえも取らなかった仮面を、そう簡単に取るわけにはいかない)
藤原家の力が強くなるのを見せ付けられ、心身ともに疲れ果てた憲平には、今はそう言って自分を慰める事しか出来ないのであった。
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