二
実頼達の行動は素早かった。
天皇の許しを得たその日のうちに守平立東宮の宣を発し、翌日には立東宮の儀を行なってしまったのである。
しっとりと重い雨が中空から降り落ちる朝であった。
儀に参列する公家達はいまだ事の展開についてゆけず、ただ呆然とそこに座っている。
しかし、中にはついてきている者も何人かではあるが、いる。
例えば、源高明である。
内心では苦々しい思いをしてはいるものの、それをなんとか押し隠し微笑を浮かべる高明。しかし、口元には隠し切れない悔しさが滲みあふれ、その笑みは引きつった物となっていた。
それとは正反対の微笑を浮かべているのは、師尹である。
少しばかり思い通りにはならなかった事はあったものの、結果として自分の思う通りの展開となっているからだ。
実頼は内心の苦々しさを隠そうともせずに憮然としてそこに座している。
そして、この儀の主役である守平は、訳がわからないと言ったような表情で辺りを忙しなく眺め見ていた。
この年やっと八歳になったばかりの守平に、大人の都合などわかるはずもない。いつも傍に控えているはずの女房達も従者達もここにはおらず、それにかわりその傍に控えている者達と言えば、政治の黒き部分に身を置く男達である。
しばらくの間辺りを見渡していた守平であったが、やがてその表情は不安の色を帯び、その瞳には今にもこぼれ落ちるのではないかと思われるほどの大粒の涙が浮かんでくるのであった。
しかし守平がいくら心細かろうが、いや、例え声の限りに泣き叫んだとしても、儀式は始まる。
それぞれの思惑を秘めた、儀式が始まる……。
「ここまでは上々、と言ったところですな」
その夜の事である。
少しばかり守平がむずがりはしたものの、ほぼ何の障害も無く立東宮の儀が執り行われたその夜、師尹に呼び出され、伊尹、兼道、兼家の三人がその屋敷において顔をつき合わせていた。
「うむ、これでひとまずのところは高明の動きを押さえる事は出来るだろう」
四人の目の前には酒と酒肴が並べられている。
これは、無事に守平を東宮に仕立て上げた事に対するささやかな宴であった。
「しかし、まだ完全に押さえたられたわけではありませぬな」
酒の勢いもあってか、普段はあまり会話に加わらない兼家が口を開く。
「兼家の言う通り、未だ高明を完膚なきまでに叩き潰せた訳ではない、が……」
「いやいや、後一息と言うところで今上が口を挟まなければ、全てが上手く言っておりましたでしょう」
伊尹の声は酒が入ると更に甲高くなるらしい。
その声の不快さと、話している途中で割りこまれた事に対し、師尹は思わず顔をしかめた。
「もう少し小さな声で話す事はできんのか」
「いや、叔父上殿、大変申し訳ない」
「……まあよい。それにしても、今上の事だ。世間では、いや、俺もあいつの事をただの物狂いだとばかり思っていたが、もしかすると違うのかもしれぬな」
「それは考えすぎと言うものではありませぬか?」
酒盃を口に運びながら兼家が言う。
「確かにあの発言は間合いが絶妙ではありました。高明殿の怒りを見事藤原家から今上自身へと変えさせ、高明殿に失言させる隙を与えさせなかった。しかし、それは偶然であったのではありませぬか?」
酒の勢いはとどまるところを知らず。
兼家の口は普段では考えられないほどに軽く、よく回る。
「あの今上であれば、うるさかっただけと言う理由で論を終わらせてしまったとしても不思議ではありますまい」
しかし、師尹の考えは違う。
「偶然と考えた方が納得いくのは確かだ。しかし、どうも何か引っかかるのだ……。まあ、今ここでどうこう言っても始まらぬ話ではあるがな」
ふと、この議論が無意味なものであると言う事に思い至り、苦笑を浮かべる。
「すまぬ、どうも少しばかり心配性になっていたようだ。久しぶりの嬉しい酒であったから、酔いが回るのが早いのかもしれぬな……。おっと、酒が切れたようだ、これ、誰かある」
その呼びかけに近くに控えていた女房が局の中へと入ってくると、師尹は女房に新たな酒を持ってこさせるように命じた。
「かしこまりました、すぐに持ってまいります」
流れるような動作で女房がまた局の外へと出てゆく。
「さて、心配ついでだ、もう一つだけ言わせてもらおう」
女房の気配が消えたのを確かめ、師尹が口を開いた。
「今回は上手く行きはしたが、未だ藤原の礎は磐石なものとは言えぬのもまた事実。お前達にはこれからも他氏の動きに目を向けてもらいたい。そして、何か不穏な動きあればすぐにでも俺のところへ知らせて欲しい」
「全てはこれから、でございますな」
伊尹が声を落としてそう言うと、
「うむ、これからの行動如何によって、我等藤原家の行末が決まるのだ。だから、皆心して欲しい」
師尹がしゃべり終わると同時に、先ほど下がった女房が酒を運んできた。
「さて、硬い話はこれまでだ、後は皆、楽しんでいってくれ」
その女房に、更に何人かの女房たちを引き連れてくるように命じると、師尹は自らの盃に残った酒を一気にあおるのであった。
「伊尹様、お待ちを」
宴も終わりを迎え、三人が三人ともほろ酔い気分で屋敷を出ようとした時、中から一人の童が伊尹のもとへと走りよってきた。
「師尹様がお呼びです。申し訳ございませんがこちらへおいで頂けませぬか?」
「……うむ? 兄上が?」
「はい。こちらへ……」
何故自分だけが呼ばれたのか、酒に酔った頭で考えながら伊尹は屋敷の中へと戻って行く。そして後に残された二人は、何故伊尹だけが呼ばれたのか不思議に思いながらも屋敷を後にするのであった。
「師尹様、伊尹様をお連れいたしました」
先導をしていた童が先ほどまで宴が行われていた局の前で立ち止まり、中へと声をかけた。
「うむ。伊尹、中へ」
頭を下げ、御簾を恭しく掲げ上げる童。
伊尹はその童を横目に、御簾を潜り抜けた。
先ほどまで宴がもようされていたとは思えぬほどに、綺麗に片付けられた局の中。
その中ほどに、師尹が一人座りこみ酒を飲んでいた。
「叔父上、何ようですかな?」
「まあ、こっちへ座れ」
師尹は身振りで自分の前へと座るように促すと、
「まだ飲めるだろう」
そう言い、盃を伊尹へと押しつけるのであった。
「……では、もう一口だけ……」
伊尹の手にわたった盃に、無言で酒を注ぐ師尹。そして、それを無言で飲み干すと、師尹の盃へと酒を注ぎ返す、伊尹。
そうしたやり取りが何度か続き、夜風に当たり幾許か覚めてしまった酔いがまた元に戻ろうとしていた時、やっと師尹が口を開くのであった。
「今のところは確かに上手く入っている。兄上も、不承不承ながらも我々の思う通りに動いてはくれている。しかし……」
それは、伊尹に対して語られていると言うよりも、独り言のような感のある呟きであった。
「しかし、これでは足りぬ、まだ足りぬのだ。兄上はなんとも思っていないのかもしれぬが、高明は兄上に次ぐ位を持っているのだぞ。それに加え先の御門の兄であり、その元には藤原家を快く思わぬものが未だ数多く存在するのだ……どうにかしてあやつを今の位から、この都から消し去らねばならぬのだ」
そこまで言うと、伊尹の方へと顔を向け、
「そこでだ、わしも信用の置ける家臣にのみ話たのだが、高明にとって具合の悪い噂が欲しい。いや、わし自身が噂を流そうかとも考えたのだが、やはり作り物では説得力が落ちる。もちろん最後の最後、どうしてもという場合はそうするであろうが……」
「噂は本物であればそれにこした事は無い、と言う事ですか。わかりました、私も信の置ける者に噂を集めるよう命じておきましょう」
「うむ、頼んだぞ。……さて、呼びとめてすまなかったな。用件はこれだけだ。後は……今から屋敷へ帰るもよし、ここへ泊まるもよし好きにしてくれ」
そう言うと、師尹は重そうに腰を上げ、局から姿を消すのであった。
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