
その時、彼の目には一体何が映っていたのであろうか。
輝く世界?
灰色に汚れたアスファルト?
身を切るような鋭い風の刃?
自分の愛する人?
見知らぬ人々?
運命?
天使?
それとも、悪魔?
屋上にいた。
勤めている会社の、高層ビルの屋上である。
そこから彼は下界を見下ろしていた。
辺りには空しかない。
自分が一番高い場所にいる。
全てが自分のものとなる場所。
全てを手に入れられる場所。
今この瞬間だけ、彼がこの世界の主であった。
だから、
思い出す。
入社してから今日までの、いや、物心ついてから今までの記憶を、思い出す。
楽しかった事。
嬉しかった事。
恐かった事。
むかついた事。
悲しかった事。
寂しかった事。
愛したかった事。
泣きたかった事。
許せなかった事。
果たせなかった事。
次から次へとその時の情景が目の前に浮かんでは消えてゆく。
「結局、何なんだろうな、俺って……」
はるか下方に見える、おもちゃのように小さな人の群れを見ながら呟いてみる。
「何であるのか解らないから、ここでこうしているのでしょう?」
ふと目の前に舞い降りる、白い人影。
いや、人ではないのであろう。
背中から生えている、二つの大きな翼。
白い、穢れなど全く無い、真っ白な羽。
頭上に浮かぶ、黄金の輪。
そして、両の手にしっかりと握られている、禍禍しいまでにまでに凶悪な、柄の長い鎌。
天使か、それとも、悪魔か。
しかし、どちらであろうとも今の彼にはどうでも良い事のように感じられた。
だからであろうか、当たり前のようにその『影』に語り掛ける。
「だから?」
気が抜けたコ−ラのように、やる気の全く感じられない言葉。
しかし、目の前に浮かぶ『影』は全てを許すかのごとく優しく微笑んでいる。
「だから、禁断の扉を開けたのでしょう?」
禁断の扉。
その言葉が彼の胸を刺し貫く。
「俺は……開けたのか?」
天上から、輝かしいまでに白い結晶が降り注いでくる。
「開けたのでしょう?」
声にはならない声で、『影』が笑う。
それとともに、羽が動く。
舞う。
結晶が舞う。
白い結晶が、舞う。
「そうか、開けたのか」
「だから、私がいるのでしょう?」
うれしそうだ。
とてもうれしそうだった。
その様子があまりにもうれしそうだったので、彼もつられて笑い出した。
おかしかった。
楽しかった。
何がそんなにおかしいのか解らないままに、笑った。
「ハハハッ、そうか、だからお前はここにいて、俺はここにいるのか」
「だから、私はここにいて、あなたもここにいるのでしょう?」
二つの笑い声がビルの間を木霊してゆく。
笑い声。
狂った笑い声。
彼の全てが狂い始めていた。
何もかもが、狂い始めていた。
「じゃ、じゃあ、俺はこれから、どうする?」
その問いに『影』は笑いながら手を差し伸べた。
……私と一緒に行きましょう……
「どこへ?」
……快楽の地へ……
「快楽の地?」
……天上へ、地獄へ……
ぐるぐる回る。
世界が回る。
その中心に、『影』がいる。
「それも、良いかもしれないな……」
理由など無い。
ただそれも良いかもしれない、という気持ちが、彼にそう言わせたのだ。
そして、『影』の手を取るべく彼は、ビルの縁から大空へと向け飛び出した。
白い粉が舞う。
白の結晶が、彼にまとわりつく。
包み込む。
優しく彼を包み込む。
絡み付く。
『影』が彼に絡み付く。
流れる。
世界が流れる。
笑う。
彼が笑う。
『影』も、笑う。
狂気の粉が空に舞う。
彼とともに、空に舞う。
…落ちる。
……落ちる。
………落ちる。
…………落ち、た。
暗い霊安室の中で、彼が静かに眠っている。
「でも、どうして……どうしてこんな物に手を出したりしたの?」
声。
女性の声。
震えた女性の声。
手に持った小さな瓶を睨みつける、女性の姿。
しかし、それに応えるべき『彼』は黙ったまま、飾りなど全く無いベッドに横たわっている。
それでも、女性は続ける。
答えの無い問いを。
答える者のいない、質問を。
そして、最後に一言、
「他に方法は無かったの?」
そう言うと小瓶を投げ捨て、『彼』の抜け殻の上へと崩れ落ちた。
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