砂の結晶[26]
泡沫
2
まるで、おとぎ話の始まりのような台詞。
生活感のないメルヘンな単語。
なのに、僕にとってはこれ以上ないくらいのリアルな言葉。
一言で十分だった。
望んでいた逃げ道――沢口は、砂の王国とは関係ない――は存在しない。
どんなに防ごうとしても、最初からその壁は不安定だったから。
沢口からもらったコーヒーが、傍観者を決め込んで、のどの奥に味を残していた。
「・・・・・・うん」
どう応えてよいのかわからなかった。
だから、僕は一言、肯定した。
それが事実だから。
そして、残り香を飲み込むように搾り出した声が、僕の深くに落ちていった。
ああ、そうか、そうだったのか。見ていたんだな、同じ光景を。
沢口はまた少しだけ微笑んで続けた。
「あんなに何回も見るとは思わなかったけど」
・・・・・・うん。
それも肯定した。声には出さなかったけど。
「いつも見てるのが同じ夢だって気づいてからは、楽しみにもしてた」
いつも。
そうか、それで、重なるはずのない砂の王国のイメージが、沢口にも見えてたのか。
この肯定にも、根底部分にはまだ疑問があったけれど、それを聞くより先に、沢口は続けた。
「砂が広がる場所で宮殿を眺める。ホントに、最初はそれだけだった」
漠然と、感じるものがあった。
僕と、同じ。
同じだと思った。
・・・・・・うん、僕と、同じ。
僕も、夢が進むまで――思い出すまで――それだけを幸福感と一緒に夢見てた。
本当に、僕と同じ。
「だから、ある日、突然夢が変わったのには驚いた」
変わった?
ドキリとした。
そう言えば、沢口は『最初に』見たのを「宮殿」だと言った。
つまり、夢が進化した?
「同じ世界の中に人物が登場するようになった」
ホッ。
一瞬・・・・・・あのことかと思った。
爆音と共に、世界が消える。
砂の王国での最後の記憶。
そんなわけ、ないのに。
僕は沢口が砂の王国の出身でないことを知ってる。
でも、人物と言うと・・・・・・次の言葉はわかる気がした。
まるでパズルのように、ピースは一つずつ埋まってゆく。
「現実でも見かける人。遠めに見る存在が、夢の中では親しかった」
沢口の言葉を借りるなら・・・・・・
「煌びやか集団」
思い描いた答えを、彼は自ら口にした。
わかってはいても、心臓は大きく波打った。
「棗[なつめ]も気にかけてたよな? だから、もっと驚いたけど、そういう視線? 態度? がわかったんだろうな、あの人が声をかけてきた」
「みつ・・・・・・岸本[きしもと]さん?」
返事の代わりに、沢口はうなづいた。
ほら、やっぱり。
一つはまれば、もう一つ。謎は一つずつ解けてゆく。
やっと、二人の接点が見えた。
優[すぐる]を気にしてたのも、王国の夢を見ていたからだったのか。
だけど・・・・・・余計に疑問が増える。
沢口は、どうしてその夢を? どうして、見たことのない場所の夢を? どうして、その夢の中で会うはずのない人の夢を?
少しの間をおいて、彼は続けた。
「夢が・・・・・・」
言葉が途切れた。
一緒に表情に陰が差した。
「また突然、別の夢を見た。それが・・・・・・それまでとは全然違うもので・・・・・・」
声という音がだんだん小さくなっていった。
言いにくそうな,苦しそうな感じに合わせるように心臓が反応した。
どくん。
今度こそ、思った。
あの、シーン?
「怖くなった。あの感覚は、夢じゃない、って」
どうして・・・・・・? 何で・・・・・・沢口が、それを?
「どうして」「何で」とクエスチョンマークだけが並んでいく。
僕を急かすような感覚がどんどん押し寄せてくる。
近づけば近づくほど、心臓が締め付けられるようで、なおさら焦る。
頭が真っ白になる。
冷たい風が額をなでたけど、冷静にはなれなかった。
答えを導き出そうとして、まだ拒絶してる僕がいた。
「あの人が話しかけてきてくれたのはその頃で、先輩は俺が混乱しないように、ゆっくり教えてくれようとしてた」
何を?
拒絶してるのに、心臓は早鐘を打つ。
拒絶してるのに、答えを急かしてる。
全ての始まりの頃よりもだいぶ温かくなったのに、反比例するように僕の体は冷えていく。
今、沢口が持っているのが、僕がまだ発見していないずっと探していた解答のような気がした。
「でももう、それも叶わない」
どくん。
空気が凍りついたようだった。
「先輩も、森村も・・・・・・突然いなくなった」
何かが僕を引っ張っていた。
僕が見過ごさないように、ちゃんとそこに突っかかるように、警告を発している。
いろんなことが物凄い勢いで頭の中を駆け巡っていった。
・・・・・・あ!!
僕の手から、ほとんど空になったスチール缶が滑り落ちていった。
突然、答えが飛び込んできた。
早くに、とっくに気づいていたはずなのに。
今までだって、後回しにしていただけで何回も引っかかっていたはずのことが、ようやく姿をはっきりさせた。
そして、僕は、今さらそれを口にした。
「沢口は・・・・・・充[みつる]さんや優のことを、覚えてる?」
そう言われるのを知っていたかのように、彼はこちらを見ていた。
みんなが忘れてしまった彼らの存在。
沢口は覚えていたのに。沢口だけは覚えていたのに。
バスケの時も、昇降口の時も、上の階から降りてきた時だって、あれは・・・・・・充さんを探しに行っていたんだ。
どうしてか、沢口だけは覚えていた。
みんな、始めからいなかったように、忘れていたのに。
何故?
「だけど、いつか・・・・・・俺も忘れる」
そして、沢口はまたあの表情を見せた。
僕が声のかけ方に戸惑う、あの表情。
どういう、意味?
何故だか泣きそうになった。
どうしてだろう? 僕はあんなに、沢口と砂の王国が結びつくことを嫌がっていたはずなのに。忘れることが普通であるはずなのに。
「やっと、わかったんだ」
・・・・・・何がだよ?
もう、ごちゃごちゃだった。
たぶん、今までと一緒なのに。
どこかで気づいていたのに、一生懸命になって気づかぬようにしていたこと。
「棗は、全部思い出すよ」
充さんを連想させる台詞だった。
沢口が忘れて、僕が思い出す?
ふいに、パズルの一番真ん中が、見つかった。
ほんの数秒の迷い。
必死で探している時には見つからないのに、いつのまにか隠していたベールを取っ払っている。
ああ、そういうことだったのか。
じゃなきゃ、沢口は『ただの夢』と傍観していればいいだけの話。
だから、今、僕は沢口と話している。
「なくしたんじゃない、他の場所に保管されている」
充さんは、確かにそう言っていた。
別の場所。
つまり、それが、沢口だったんだな。
僕の代わりに、沢口がその記憶を持っていたってことだ。
記憶がなくて焦っていたのが嘘みたいだった。
こんなに近くに、記憶はあったのに。
そうして、記憶が僕へ還るほど、沢口は元に戻っていく。
そうやって、他のみんなと同じように戻って、そして、いつか、忘れるんだ。
呆然と彼を見つめた。
沢口の頭が垂れた。
「ごめん」
耳に届いた謝罪に驚いた。
ぶんぶん。
大きく首を振った。
違う。
謝られる理由なんてなかった。
沢口が悪いわけじゃない。
むしろ、謝るならこっちだ。
関わらずにいられたはずのことに、巻き込んだんだから。
満点じゃなくても、原因がすぐに思い当たった。
改めて思う。
時の扉のすごさを。
これが、時の扉を操る、ということなのか。
扉のパワーが増大過ぎて、僕の記憶が飛ばされてしまったのか、それとも、以前充さんが言っていたように「この世界の始まりは、それぞれ違う場所で別の場所」だから、直接、時の扉の力を浴びた僕は特に、身体と記憶が分かれた状態でこの世界に来たのかもしれない。
どちらにしろ、沢口を責める気にはならなかった。
知らずして記憶を増やして、あげく悩ませたんだ。
「大事な記憶だったのに」
もう一度、僕は首を振った。
「沢口のほうが、キツかっただろ?」
沢口も首を振った。
「俺は・・・・・・嬉しかったよ。俺が見せてもらった夢は本当にあったかくて、あの輪の中にいられたら、と思った」
目が熱かった。
流れはしなかったけれど、目の奥に涙が溜まっていることは感じていた。
「棗がすぐに思い出せなかったのは、俺がもっと覚えていたかったからかもしれない。あの中に、いたかったからかもしれない」
何かを失うような,諦めたような、切ない顔。
そのまま、穏やかな顔で、沢口は続けた。
「大事な記憶なのに、ごめん。・・・・・・全部忘れてしまう前に、言いたかったんだ」
僕が思い出せば、沢口は忘れる。
沢口はもう、十分だよ、と笑ってみせた。
布団に倒れこみ、天井を仰いだ。
沢口は「もう、ほとんど鮮明には思い出せない」と言った。
溜まっていた涙があふれてきた。
それは、記憶がなくなったからじゃない。記憶の在り処がわかったからじゃない。すべての記憶がいずれ戻ることを確信したからじゃない。
どんな気持ちだろう?
本来なら、知らずにすんだことに、意思などお構い無しに巻き込まれて、なのに、いずれそれを失う。そして、失うことを知っている。失うことを肌で感じている、って。
全部忘れる。
そして元通りになる。
最初からそれはなかったように。
いずれ、全部。
充さんや、優のこと、姫のことも・・・・・・。
ああ、だから・・・・・・。
音楽室での光景が、妙に切なく見えた。
あの時、僕には、消え始めた姫の印象ばかりが強く残ってしまったけれど、他にもいっぱいいっぱい振り返るべき点があったじゃないか。
音楽室には、姫と沢口がいた。
姫も知っていたのか? 記憶のこと。
それとも、沢口が自ら姫の元に?
それすら、いずれ、沢口は忘れてしまう。
僕は、目を覆うように、手をやった。
いつしか、頬に涙が伝ってた。
僕は、沢口の優しさに甘えていたんだ。
ずっと昔に悟っていたのに、本当に今さら、僕はそれを認めた。
もう逃げない、なんて、口先だけの決意だったことを。
目を閉じなくてもいくらでも思い描ける世界。
青い空。輝く砂。美しい宮殿。
そこには、僕の大好きな人たちがいる。
でも、沢口はいない。
彼が砂の王国の人間じゃないと知っていたから、臆病さに目を背けていられたし、そのことに気づくことを避けようとしてた。
でも、薄っぺらい防壁をいつも不安に思っていたから、最後の砦の沢口が砂の王国に関わってくることを嫌ってた。
「ごめん」
夜の静寂の中で、僕は一言だけ呟いた。