仁保城物語
今は昔、現在の香川県三豊郡仁尾町に仁保城と言うお城がありました。 ところが、今を遡ること421年前の天正7年(1579年)旧暦の3月3日に 土佐の長曽我部元親の軍勢に攻められ落城してしまいました。 |
1、仁尾町の歴史・・平安時代の寛治4年(1090年)内海一帯が京都の賀茂神社の御厨荘9箇所 のうちの一つとなり津多島(蔦島)に賀茂分社が、勧請されました。御祭人には田地が与えられ 課税も免ぜられ、次第に開発されました。仁尾の初見は鎌倉時代の弘安元年(1278年) 閏10月12日の藤原資治、田畠放券(仁尾賀茂神社文書)に『詫間御庄に仁尾村・・』 とあり詫間荘内の一単位所領として出ています。室町時代初期には綿座が開かれ人々が集り 商家も増加した。又、海路による上方との往来が頻繁になるにつれて港も発達しました。 更に、讃岐の守護細川氏の直轄地となり軍港としての役割もあったようです。 江戸時代になり丸亀藩の保護を受けて醤油、酢、酒等の醸造業や綿花、茶、生糸等の生産と 取引で大店が軒を並べ西讃の商工業の一中心地としての活況を呈したそうです。 土佐藩主山内氏が参勤交代のため、仁尾の港を利用したことや、丸亀藩主の京極氏が毎年夏に 蔦島に遊んだことから往時が偲ばれます。
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2、仁尾城落城・・天正7年(1579年)2月長曽我部元親の将兵は、観音寺市室本町の九十九 山城を攻略し、細川伊予守氏政公を追い、勢に乗じて仁尾に侵入しました。 仁尾城主細川土佐守頼弘公、天神山城主吉田兼久公らは防ぎ戦ったが討死致しました。 土佐兵は更に金光寺(細川家の菩提寺)を焼き地頭藤原政澄以来連綿として続いた中上館(辻草木、 小山峰)を攻め、ここにも放火した。この戦は3月2日から3日にわたるもので、町の大半は 兵火にかかり、死傷者は甚だしい数に上ったそうですそうした訳で仁尾町では3月3日の 上巳の節句はせず八朔の男子の武者人形と同時に飾っています。 ( 昭和46年3月31日発行 詫間町史より) |
3、仁尾城研究・・ 仁尾城に関しては謎が多くこれから調査をしてきたいと思っています。 現在、仁尾城があったと言われている場所は、三豊郡仁尾町の『覚城院』という お寺から『八紘山』と呼ばれる標高42mの小高い丘にかけてです。 現在、『覚城院』から山の中腹にある『戦者墓地』(西南戦争から太平洋戦争までの 仁尾町出身の戦没者を祭った墓地)までは石垣がありますが、『戦者墓地』から 『八紘山』にかけては、何も無く、山頂は平らになっています。 現在、『覚城院』のある場所は、江戸時代に丸亀藩藩主山崎公の次男が陣屋を 構えていたという話もありますが、これも資料が無く謎です。
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謎・・1.仁尾城守細川土佐守頼弘公とは何者か? 仁尾城には細川土佐守頼弘公が城主であったと言う説と 香川信景公(雨霧城城主)の属城であったとと言う説があります。 仁尾町史等を見ても当時の守護細川家(頼之公等)の家系図を 見ても頼弘公の名前は出て来ません。しかし、仁尾町の金光寺には 頼弘公のお墓が実在するのです。 2.仁尾城はどういった城であったのか? 私は中学生の時、覚城院の石垣が仁尾城の跡であると勝手に 思いこんでいたが、今考えて見ると、山頂には石垣らしきものは 一切残っていないし、当時の近隣の城と呼ばれる所は(観音寺の 九十九山城、善通寺の雨霧城等)山城で『八紘山』の何倍もあり 当時の築城方法から考えると標高が低過ぎる(42m)し、天神山城 に至っては標高が28.9m、である上に、当時は海の中の島であったのです。 仁尾町は三方を山に囲まれ、一方が海になっており、さながら、鎌倉の ミニチュアのような地形をしており、当時の軍港であったと言うのは まんざら嘘でも無いように思われます。 推論1・・城主が細川頼弘公であり、細川頼弘公が足利尊氏公の 家系であったと推論するなら、仁尾城は当時としては 立派な城ではなかったのかと推論できます。 雨霧城城主香川氏は細川氏の部下として香川にやって来ており 細川四天王の一人であったと伝えられています。 応仁の乱後細川氏の勢力が弱まって香川氏が勢力を持ったにせよ 嘗ての上司を裏切る事があったとすれば、細川氏と香川氏が 戦ったと言う記録が残っていても不思議ではないからです。 ですから、細川氏の勢力が弱まってきても、直轄地である仁尾 近辺は細川氏の領地で残したのではないかと推論します。 当時の城は香川氏の雨霧城に代表されるよに『詰めの城』としての 山城、少し離れた所の城主の館(香川氏で言うなら現在の桃稜 公園)があったはずだが、仁尾城の場合は、覚城院の場所が 城主の館、八紘山の山頂が本丸の後と推論できます。 時代からすれば、茨城の『逆井城』近年復興された天守閣の 代りの二重櫓位の物か、日本で最古の天守閣を持つ『丸岡城』 天守閣があってのではないかと推論できます。(2城とも 天正初期のもの)最近整備された大阪池田市の池田城跡の 公園にも時代考証を考え『逆井城』のような櫓が作られています。 推論2・・城主が香川信景公であり、香川氏の属城であったとすれば 仁尾城はただの砦程度の城でなかったと思われます。 現在の『覚城院』の石垣は丸亀藩時代の陣屋の後でないかと 推論できます。
まだまだ不完全ですが少しずつ書いていきたいと思っています。 |
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