良い宇宙人と悪い宇宙人,宇宙の真相, The Earth is Controlled by Evil Alien


NO4694


愛、智両方を含む帖 


julaさんのメール

男と女の補足として両方を含む帖です。

仮に男と女がとLinkしているとした場合です。

が女、が男とは特に書かれていませんが、 月が、太陽がと読める部分はあります。


日月の巻 第30帖 (203)

地震の巻 第01帖 (378)

地震の巻 第07帖 (384)

地震の巻 第08帖 (385)

地震の巻 第11帖 (388)

地震の巻 第15帖 (392)

地震の巻 第19帖 (396)

空の巻 第07帖 (462)

黄金の巻 第034帖 (545)

黄金の巻 第064帖 (575)

黄金の巻 第086帖 (597)

黄金の巻 第091帖 (602)

黄金の巻 第092帖 (603)

白銀の巻 第02帖 (613)

黒鉄の巻 第17帖 (635)

黒鉄の巻 第19帖 (637)

黒鉄の巻 第22帖 (640)

春の巻 第15帖 (672)

扶桑の巻 第08帖(857)

星座の巻 第16帖(899)



おのころの国成り、この国におりまして あめとの御柱(みはしら)見立て給ひき。

(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)島生み 給ひき。

初めに水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)、生み給ひき。

この御子、国のうちにかくれ給ひければ、

次にのりごちてのち生み給へる御子、淡道之穂之三別島(あわじのほのさわけしま)、伊予の二名島(いよのふたなしま)、

この島、媛(えひめ)、飯依比古(ひひよりひこ)、大宜都比売(おおけつひめ)、建依別(たてよりわけ)と云ふ。

次、隠岐の三子島(おきのみつこしま)、 天之忍許呂別(あまのおしころわけ)。

次、筑紫島(つくししま)、

この島、白日別(しらひわけ)、豊日別(とよひわけ)、 建日向日豊久土比泥別(たけひむかひとよくづひぬわけ)、建 日別(たてひわけ)。

次、伊伎島(いきしま)、天比登都柱(あめのひとつはしら)。

次、津島(つしま)、天狭手依比売(あめのさてよりひめ)。

次、佐渡島(さとしま)。

次、大倭秋津島(おおやまとあきつしま)、天津御空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)、

次、吉備之児島建日方別(きびのこしまたてひかたわけ)。

次、小豆島(あづきしま)、大野手比売(おおぬてひめ)。

次、大島大多麻流別(おおしまおほたまるわけ)。

次、女島(ひめしま)、天一根(あめひとつね)。

次、知詞島(ちかのしま)、天忍男(あめのおしを)。

次、両児島(ふたこしま)、天両屋(あめふたや)、二島(にしま)、八島(やしま)、六島(むしま)、合せて十六島生み給ひき。

次にまたのり給ひて、大島、小島、生み給ひき。

淡路島(あわじしま)、 二名島(ふたなしま)、おきの島、筑紫の島(つくしのしま)、壱岐の島 (いきのしま)、津島(つしま)、佐渡の島(さどのしま)、大倭島(おおやまとしま)、児島(こじま)、小豆島(あづきしま)、大島(おおしま)、女島(ひめしま)、 なかの島、二子島(ふたこしま)の十四島、島生みましき。

次に、いぶきいぶきて、御子神 生み給ひき。

大事忍男神(おほことおしをのかみ)、 大事忍男神(オホコトオシヲノカミ)、 石土毘古神(いしつちひこのかみ)、石土毘古神(イシツチヒコノカミ)、 石巣比売神(いしすひめのかみ)、石巣比売神(イシスヒメノカミ)、 大戸日別神(おほとひわけのかみ)、大戸日別神(オホトヒワケノカミ)、 天之吹男 神(あめのふきをのかみ)、天之吹男神(アマノフキヲノカミ)、 大屋毘古神(おお やひこのかみ)、大屋毘古神(オオヤヒコノカミ)、 風木津別之忍男神(かさけつわ けのおしをのかみ)、 風木津別之忍男神(カサケツワケノオシヲノカミ)、海神(わ たのかみ)、海神(ワタノカミ)、大綿津見神(おほわたつみのかみ)、水戸之神(みなとのかみ)、水戸の神(ミナトノカミ)、速秋津比神(はやあきつひのか み)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)、風神(かぜのかみ)、風神(カゼノカミ)、志那都比古神(しなつひこのかみ)、 木神(きのかみ)、木神(キノカミ)、久久能神(くくのちのかみ)、山神 (やまのかみ)、山神(ヤマノカミ)、大山津見神(おほやまつみのかみ)、野神 (ぬのかみ)、野神(ヌノカミ)、鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)、野椎神(ぬつちのかみ)、 鳥之石楠船神(とりのいわくすつねのかみ)、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、 大宜都比売神(おほけつひめのかみ)、大宜都比売神(オホケツヒメノカミ)、 火之夜芸速男神(ひのやきはやをのかみ)、火之?比古神(ひのかがひこのかみ)生みましき。速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ)、 二柱の神 川海(かわうみ)に因(よ)りもちわけ、ことわけて、生ませる神、 沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、頬那芸神(つらなぎのかみ)、 頬那美神(つらなみのかみ)、天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之 水分神(くにのみくまりのかみ)、天之久比奢母神(あめのくひさもちのかみ)、 国之久比奢母神(くにのくひさもちのかみ)、次に、大山津見神(おほやまつみのかみ)、 野椎神(ぬつちのかみ)の二柱神、山野(やまぬ)に依りもちわけて、ことあげて生みませる神、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、国之狭土神(くにのさつちのかみ)、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)、天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、大戸惑子神(おほとまどひこのかみ)、大戸惑女神(おほとまどひめのかみ)、大戸惑子神(オホトマドヒコノカミ)、大戸惑女神(オホトマドヒメノカミ)生みましき、 伊邪那美神(いざなみのかみ)やみ臥(こや)しまして、たぐりになりませる神、金山比古神(かなやまひこのかみ)、金山比売神(かなやまひめのかみ)、屎(くそ)になりませる神、波仁夜須比古神(はにやすひこのかみ)、波仁夜須比売神(はにやすひめのかみ)、尿(ゆまり)に成りませる神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)、この神の御子、豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と申す。

ここに伊邪那美神(いざなみのかみ)、火の神 生み給ひて、 ひつちとなり成り給ひて、根の神の中の国に神去り給ひき。

ここに伊邪那岐神(いざなぎのかみ)泣き給ひければ、その涙になりませる神、 泣沢女神(なきさわめのかみ)、ここに迦具土神(かぐつちのかみ) 斬り給へば、その血 石にこびりて、石析神(いわさくのかみ)、 根析神(ねさくのかみ)、石筒之男神(いわつつのおのかみ)、 雍瓦速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、 建御雷男神(たけみかつちおのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)、 豊布都神(とよふつのかみ)、御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血、闇於加美神(くらをかみのかみ)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)、ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)に成りませる神、正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)、御胸に於藤山津見 神(おとやまつみのかみ)、腹(みはら)に奥山津見神(おくやまつみのかみ)、陰(みほと)に闇山津見神(くらやまつみのかみ)、左の御手に志芸山津見神(しきやまつみのかみ)、右の御手に羽山津見神(はやまつみのかみ)、左の御足に原山津見 神(はらやまつみのかみ)、 右の御足に戸山津美神(とやまつみのかみ)、成りましき。

ここに斬り給へる御刀(みはかし)、天之尾羽張(あめのおはばり)、伊都之尾羽張(いづのおはばり)、と云ふ。

ここに妹(いも)恋しまし給ひて根の国に追い往(い)で給ひき。

十一月二十五日夜、

一二

日月の巻 第30帖 (203)

使用された特殊文字   


われわれの一切は生れつつある。

神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。

太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。

一定不変の神もなければ、宇宙もない。

常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。

過去もなければ、現在もなく、未来もない。

只存在するものが生れに生れつつある。

生もなければ死もない。

善も思わず真も考えず美も思わない。

只自分自身のみの行為はない。

只生れゆき栄えゆくのみである。

善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。

故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。

何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。

思うことは行為することである。

生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。

存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。

何ものも、それ自らは存在しない。

弥栄しない。

必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。

また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。

地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。

また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。

また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。

しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。

善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。

霊人に空間はない。

それは、その内にある情動によって定まるが故である。

また、その理によって一定せる方位もない。

また時間もなく只情動の変化があるのみである。

地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。

創造されたものならば、永遠性はあり得ない。

宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。

その用はと現われ、真と見ゆるも、と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。

只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。

存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。

それはであり、 なるが故である。

は大歓喜の本体であり、はその用である。

それは、善でもなく悪でもない。

真でもなく偽でもない。

美でもなく醜でもない。

またでもなく憎でもない。

プラスでもなければマイナスでもない。

しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の地震の巻

第01帖 (378)


ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第七帖 384

昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年) 384

地上には、地上の順序があり、法則がある。

霊界には、霊界の順序があり、法則がある。

霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上に はうつし得ず、結果し得ないのである。

また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。

しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩 序され、法則され、統一されているのである。

その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。

故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。

これが、生命の本体であって、限られたるによって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。

しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、 必然悪として生かすのである。

生きたる真理の大道であり、

神の御旨なることを知り得るのである。

本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らね ばならない。

これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。

一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、

一の天界は、極めて低い囚われの水の世界 であったことを体得する。

更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。

地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、

三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、

二の天界は悪に感じられる場合が多い。

悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、

この実状を感覚し分け得た上、

体得する霊人は極めて少ない如く、

地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。

悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白 となり、己をするは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを 知らねばならぬ。

来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。

しかし、それが最高の理想郷ではない。

更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ 世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。

地震の巻 第07帖 (384)


生前の世界に、霊人が生活している。

山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。

しかし、それは最初からのものではない。

それらの元をなすが歓喜していた、

そのが生後、地上世界にうつされて、

地上的約束の下に生長し、

秩序されたがため、

その結果が、死後の世界につづき、

死後の世界の様相はの原理によって、

生前世界に移行して、生前的に進展し、

弥栄し、そのを幾度となく繰り返すうちに、

漸次、内的に向って弥栄する面と、

外的、地上的に進むと、

その交叉融和することによって更に生み出され弥栄すると、

その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。

而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。

また、生命の大歓喜として湧き出ている。

故に、地獄にあらざる地獄的霊界、

天国にあらざる天国的霊界は、

霊人により生み、

霊人により育てられると同時に、

人々により生み、

人々により育てられ、

歓喜されるのである。

かく弥栄進展するが故に、

人類も霊人類も、

各々その最後の審判的段階に入る迄は、

真の三千世界の実相を十分に知り得ない。

故に、新天新地の来る迄、

真の天国を体得し得ない。

新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。

この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、

何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、

同一のものではない。

より小なるものより、

より大なるものが生れ、

より大なるものより、

より小なるものが生れ、

より新しきものより、

より古きものが生れ、

より古きものより、

より新しきものが生れ、

弥栄し、

一つの太陽が二つとなり、

三つとなり、

更には一つとなることを理解しない。

月より地球が生れ、

地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、

最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。

これは外部的なるによらず、

内奥の神にめざめることによってのみ知り得る。

新天新地新人はかくして、

生れ、呼吸し、弥栄える。

しかし、新人と生れ、

新天新地に住むとも、

その以前の自分の総ては失わない。

只その位置を転換されるのみである。

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、

その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。

その状態よりも尚一層、

そのままであって何等の変化もないと思える程である。

蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、

それは大いなる喜びである。

何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、

大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。

総てのものは歓喜に向かい、

歓喜によって行為する。

歓喜がその目的であるが故に、

歓喜以外の何ものも意識し得ない。

故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、

真理はなく、

生命はない。

生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、

地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、

弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。

歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。

只考えたり意志するのみでは萌え出でない。

生命しない。

只意志するだけで行為しないことは、

まことに意志することではない。

霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。

地上人にありては物質によりて物質の中に、

その意志を行為することによって始めて歓喜となり、

形体を為し弥栄えるのである。

生前の霊界は、

の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、

その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、

その段階に於て、

その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、

霊人の各々は、

自らの歓喜にふさわしい所に集まり、

自ら一つの社会を形成する。

自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。

否、苦しくて住み得ないのである。

若しその苦に耐え得んとすれば、

その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、の歓喜に住む霊人は、

そのの内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、

同一を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。

故に、生前の世界では、

自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。

山も川も家も田畑も、

そこに住む霊人たちも、

動物も植物も鉱物も、

総て自分自身と同一線上にあり、

同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、

それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。

自分は他であり、

他は自分と感覚する。

故に、その性質は生後にも続き、

地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。

しかし、地上世界は、物質的約束によって、

想念のままには動かない。

死後の世界もまた生前と同様であるが、

一度 物質世界を通過したものと、

しないものとの相違が生じてくるのである。

だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。

物質は物質的には永遠性をもたず、

霊は永遠性をもつが、

霊的角度から見れば永遠性はもたない。

しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、

永遠から永遠に弥栄してゆくものである。

而して、永遠性をもつ事物は、

地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。

無は有を無化せんとし、

有は無を有化せんとし、

その融合の上に生命が歓喜するのである。

無は有を生み、

有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。

地震の巻

第08帖 (385)

使用さされた特殊文字 


霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。

同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。

霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、

そのままにして通ずるのである。

しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。

それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。

またその語ること、その語音によって、

その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。

即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。

霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、

その表現は相違している。

故に、霊人と地上人と会話する時は、

霊人が地上人の想念の中に入るか、

地上人が霊人の想念に和するか、

その何れかでなくてはならない。

しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、

その内蔵するものが極めて深く広いが故に、

霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、

その霊人が高度の霊人であればあるだけに、

その度を増してくるのである。

原因と結果とを一つにし、

更に結果より生ずる新しい原因も、

新しい結果をも同時に表現し、

なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、

且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、

行為し、生命するからである。

言葉そのものが弥栄であり、

生命である。

また総てであるということは、

地上人には理解できぬであろう。

それは、過去が現在であり、

未来もまた現在であり、

更に生前も、生後の立場においては生後であり、

死後の立場においては死後である。

また一里先も、

百里先もまた千万里はなれていても、

同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。

だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、

理解することは困難であるが不可能ではない。

霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、

神の言葉でもあるが、

その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。

歓喜の現われとしてのに位置している霊人の言葉は、

善的内容を多分に蔵している。

故に、柔らかくして連続的であり、

太陽の(ひかり)と (熱)とに譬えることができる。

また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、

的内容を多分に蔵している。

故に、清く流れ出でて連続的ではなく、

或る種の固さを感じさせる。

そしてそれは月の光と、

水の如き清さとを感じさせる。

また前者は曲線的であって消極面を表に出し、

後者は直線的であって積極面を表に出している。

また前者はに住するが故に、

主としてOとUの音が多く発せられ、

後者はに住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。

そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、

またそれを感得し得る能力をもっている。

しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念のをなすものであって、

地上人よりすれば、言葉そのものとしては、

感得し得ないことを知らねばならないのである。

霊界に於ける音楽もまた同様であって、

を主とした音楽はO及びUを多分に含み、

曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、

直線的である。

それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、

各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。

またこれら霊人の言葉は、

天的の韻律をもっている。

即ちを主とするものは、

五七七律を、

真を主とするものは、

三五七律を主としているが、

その補助律としては、

千変万化である。

言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、

その完全、弥栄を示すものであって、

律の不安定、不完全なものは、

正しき力を発揮し得ず、

生命力がないのである。

地震の巻 第11帖 (388)

使用さされた特殊文字    


霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。

故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。

住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。

霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、

と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。

と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。

また、内分を同じくする霊人たちは、

相集まり、住宅は互に並び建てられており、

地上に於ける都会や村落とよく似ている。

その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。

そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、

地上世界に、それの写しがあるのである。

霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、

地上人の世界である。

地上人は、物質を中心として感覚し、

且つ考えるから、真相が中々につかめない。

これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、

霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。

また天人の衣類も、

その各々がもつ内分に正比例している。

高い内分にいる霊人は高い衣を、

低いものは低い衣を自らにして着することとなる。

彼等の衣類は、彼らの理に対応しているのである。

に対応すると云うことは、

真理に対応すると云うことになる。

但し、最も中心に近く、

太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。

この境地に到れば、総てが歓喜であり、

他は自己であり、

自己は他であるが故である。

しかし、他よりこれを見る時は、

見る霊人の心の高低によって、

千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。

また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。

霊人はまた、いろいろな食物を食している。

云う迄もなく霊人の食物であるが、

これまたその霊人の状態によって千変万化するが、

要するに歓喜を食べているのである。

食べられる霊食そのものも、

食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。

地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、

霊人は口のみでなく、

目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。

そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、

融け合い、一つの歓喜となることである。

霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、

食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。

これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、

その歓喜の度合および表現には大きな差がある。

食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、

神から神を与えられるのである。

以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、

食べているのか、食べられているのか判らない程である。

また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。

現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、

同類である動物性のものは好まない。

何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。

霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、

返って不快となるからである。

そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。

そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。

すべての善はより起り、にかえるのと同様、

総ての悪もまたより起りにかえる。

故に、神をはなれた善はなく、

また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。

殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、

地上人たり得るのであって、

悪をとり去るならば、

地上人としての生命はなく、

また善は無くなるのである。

この悪を因縁により、

また囚われたる感情が生み出す悪だ、

と思ってはならない。

この悪があればこそ、

自由が存在し、生長し、弥栄するのである。

悪のみの世界はなく、

また善のみの世界はあり得ない。

所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。

地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。

地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。

その平衡するところに力を生じ、生命する。

しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、

すべてのもののが与えられると見えるものである。

これを、直接内流と称し、

この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、

真理となる。

また、より入るときは善となり、

信仰力となって現われる。

そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。

故に、永遠する生命はと離れ、

真と離れ、

また信仰とはなれてはあり得ないのである。

神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。

法則とは歓喜の法則である。

神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。

これは、地上人として生れ出ずる生前から、

また、死後に至るも止まざるものである。

神は、左手にての動きをなし、

右手にての動きを為す。

そこに、地上人としては割り切れない程の、

神の大が秘められていることを知らねばならぬ。

地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、

また、悪、偽に導かれる。

この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。

その平衡が、神の御旨である。

平衡より大平衡に、

大平衡より超平衡に、

超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。

左手は右手によりて生き動き、栄える。

左手なき右手はなく、右手なき左手はない。

善、真なき悪、偽はなく、

悪、偽なき善、真はあり得ない。

神は善、真、悪、偽であるが、

その新しき平衡が新しき神を生む。

新しき神は、常に神の中に孕み、

神の中に生れ、神の中に育てられつつある。

始めなき始めより、

終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。

地震の巻 第15帖 (392)

使用さされた特殊文字  


天国の政治は、歓喜の政治である。

故に、戒律はない。

戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。

天国の政治は、の政治である。

政治する政治ではない。

より内奥の、より浄化されたるそのものからなされる。

故に、与える政治として現われる。

天国は、限りなき団体によって形成されている。

そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、

最内奥の歓喜によりなされるのである。

統治するものは一人であるが、

二人であり、

三人として現われる。

三人が元となり、

その中心の一人は、によって現わされ、

他の二人は、によって現わされる。

は、左右上下 二つの動きのを為すところの 立体からなっている。

統治者の心奥のは、更に高度にして、

更に内奥に位するの中の によって統一され、

統治され、立体をなしている。

天国では、このを、スの神と敬称し、

歓喜の根元をなしている。

スの神は、アの神と現われ給い、

オとウとひらき給い、

続いて、エとイと動き現われ給うのである。

これが総体の統治神である。

三神であり、二神である。

ア、オ、ウはであり、

エ、イは真である。

これら天国の組織は、人体の組織と対応し、

天国の一切の事象と運行とは、

人体のそれに対応している。

オ、ウなるは曲線であり、心臓である。

エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。

これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。

よりよく奉仕するのみである。

奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、

善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、

これらの総てを神の力として生かし、

更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。

また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、

他の善と真とを先とし、

その歓喜を先ずよろこび、

己はその中にとけ入る。

故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、

団体の歓喜となるのである。

指令することは、戒律をつくることであり、

戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。

天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、

更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。

一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、

前記の如き原則を体している。

またその家族たちは、主人の働きを助け、

主人の意を意として働く。

その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。

即ち、歓喜の政治であり、

経済であり、生活であり、信仰である。

天国に於ける天人、霊人たちは、

常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。

歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、

より高き歓喜に進んで行くことである。

けれども、天国における礼拝は、

地上人のそれの如き礼拝ではない。

礼拝生活である。

総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。

与えられたる仕事を礼拝し、

仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。

故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。

しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。

地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、

天国に於ける礼拝は、千変万化で、

無限と永遠に対するものである。

無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、

その弥栄が神の用である。

森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、

この無限と永遠を知り、

あらゆる形において変化繁殖するを見て、

無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。

天国の政治は、光の政治である。

天国にも地上の如く太陽があり、

その太陽より、光と、熱とを発しているが、

天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。

一は月球の如き現われ方である。

一は火の現われ、火の政治であり、

一は水の現われ、水の政治である。

を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、

を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。

月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、

各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、

神は常に光と熱として接し給うのである。

またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。

光と熱とは、太陽そのものではない。

太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、

その内奥はいずれも大歓喜である。

光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。

このことをよく理解するが故に、

天国の政治は、常に光の中にあり、

また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。

天国の太陽よりは、真ととが常に流れ出ているが、

その真と、とは、太陽の中にあるのではなく、

現われ出たものが真と見え、

と感じられるのみである。

太陽の内奥は大歓喜が存在する。

故に高度の天人の場合は、も真もなく、

遥かにそれらを超越した歓喜のが感じられるのみである。

この歓喜のが、真、善、美、となって、

多くの天人、天使たちには感じられるのである。

歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、

また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。

地震の巻 第19帖 (396)

使用さされた特殊文字  


これだけ細かに神示で知らしても未だ判らんか、

我があるからぞ、

曇りてゐるからぞ、

先づ己の仕事せよ、

五人分も十人分もせい出せと申してあろ、

五人分仕事すれば判りて来るぞ、

仕事とはよごとであるぞ、

仕事せよ、

仕事仕へまつれよ、

それが神の御用ざぞ。

神の御用ざと申して仕事休んで狂人(きちがい)のまねに落ちるでないぞ、

静かに一歩々々進めよ、

急がば廻れよ、

一足飛びに二階にはあがれんぞ、

今の仕事悪いと知りつつするは尚悪いぞ、

四五十(しごと)、

四五十と神に祈れよ、

祈れば四五十与えられるぞ、

祈れ祈れとくどう申してあろが、

よき心よき仕事生むぞ、

嘉事(よごと)うむぞ、

この道理まだ判らんのか、

神にくどう申さすでないぞ。

大理交はり、

道はあきらか、

、大真出でひらく道、

ひらきて大、大、和し、

交はりて、ひふみの極み、

弥栄、弥栄の大道ぞ。

一月十三日、ひつ九

空の巻 第07帖 (462)

使用された特殊文字 


ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第三十四帖 545

昭和二十四年十一月二十七日、

旧十月八日(1949年) 545

世界平とう、胸の掃除からハラの掃除ぞ。

がまことのぞ。

(ア九(ク))も神の御子。

絶対の責任は神、

相対の責任は人民。

親よりも師よりも神せよ。

その親、師は神から更にされるぞ。

九二十九十千の(オークニトコタチのカミ) (ガ)(オースサナルのカミサマ)なり。

かのととりの日。

一二十

黄金の巻 第034帖 (545)

特殊文字 


ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第六十四帖

昭和二十四年十二月十四日、

旧十月二十五日(1949年)

何処で何してゐても道さへふんで居れば弥栄えるぞ。

行き詰ったら省みよ。

己の心の狂ひ、判って来るぞ。

神から伸びたでないと、

人民のや学やはすぐペシャンコ。

やりてみよれ。

根なし草には実は結ばんぞ。

お尻出したら お尻綺麗にふいてやれよ。

怒ってはならん。

子の尻と思うて拭いてやれよ。

判った人民よ。

今の内は阿呆結構ぞ。

一つに和して御座れ。

人間心で急ぐでないぞ。

(十二月十四日)

一二十,

黄金の巻 第064帖 (575)


黄金の巻 第086帖 (597)

一分一厘、力一杯、違はんこと書かしてあるのぢゃ。

色眼鏡で見るから、

違ったことに見えるのぢゃ。

神示、嘘ぢゃと申すやうになるのぞ。

眼鏡外して、落ち付いてみて、

ハラで見て下されよ。

世の先々のことまで はっきりと写るぞ。

そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、 言向けねばならん。

善きに導かねばならん。

一生かかってもよいぞ。

それが天国に行く鍵であるぞ。

マコトの改心であるぞ。

慧と、が主の座に居らねばならん。

物はから生れるぞ。

ウムものがもとぢゃ。

生まれるものはナルのぢゃ。

ナルには慧でなるのぢゃぞ。

(一月三日)


ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第九十一帖

昭和二十五年一月三日、

旧十一月十五日(1950年)

の人間は深く、

の人間は広く進むぞ。

経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。

二つが織りなされて、

結んで弥栄える仕組。

経のみでならん。

緯のみでならん。

この世に生れてはこの世の御用、

この世の行せねばならん道理。

この世に生れて、この世の行せねば、

生れた時より悪くなるぞ。

草木より役に立たんものとなるぞ。

草木に変へると申してあらう。

神が変へるのでない。

自分でなり下がるのであるぞ。

判りたか。

(一月三日)

黄金の巻 第091帖 (602)


つつましく、正しくして行けば その国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに気付かんのか。

天災地変は人間の心のままと申してあらう。

豊作、凶作 心のままぞ。

今のままで行けば何うなるか、誰にも判らんであらうが、

神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。

ひつくとみつくの民あると申してあらう。

ひつくの民は神の光をの中に受け、

みつくの民はの中に受ける。

に受けると直ちに血となり、

に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。

二つの民の流れ。

(一月三日)

黄金の巻 第092帖 (603)


判るやうに申すならば、宇宙は真ととの現はれであるぞ。

と真ではない。

、真、善、であるが、真でもなく、善でもないぞ。

と真が善とと現はれ、喜びとなってはたらき、が加わって弥栄えた生命であるぞ。

のみと云ふものないぞ、真のみと云ふものないぞ。

と現はれ真と現はれるのであるぞ。

人間には現はれたものだけより判らんのであるが、ことわけて申すならばには真かくれ、真にはかくれ、その奥にがあるのぢゃ。

人間はおやを父と母とに区別してゐるが、母と現はれる時は父その中に居り、父と現はれる時はその中に母ゐるのであるぞ。

何れも親であるぞ。

父となり母となり現はれるのであるぞ。

と真、善とと区別して説かしておいたが、それは今迄のこと、いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ。

が判らねばならん。

が判らねばならん。

男の魂は女、女の魂は男と申してあらう。

人間の目にとうつるものは外の

真とうつるものは外の真ぞ。

中から申せば外は御役の悪であるぞ。

今が過去で、今が未来ぞ。

時間にふみ迷ふなよ。

空間に心ふみ迷ふでないぞ。

皮一枚ぬいで心でよく考へなされ。

いつも日が出てゐるでないか。

月輝いて御座るでないか。

力そのものに、力はないのであるぞ。

霊と肉の結びのみで力現はれるのでないぞ。

プラスとマイナスと合せて組みて力出ると思うてゐるのであらうが、

一歩ふみ出さねばならんぞ。

プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。

力出ないのざ。

の力が加わって 其処にヨロコビ出て、理(ミチ)となり、

なり、なりて真実と現はれるのぞ。

弥栄が真実ぞ。

神ぞ。

神の心ぞ。

竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。

地からの竜神は進化して行くのであるぞ。

進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。

一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。

この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。

人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。

イワトしめとイワトひらきの二つの御用のミタマあると申してあらうが。

ミタマの因縁恐ろしいぞ。

は呼吸して喜びとなるのであるぞ。

よろこびは形をとる。

形なく順序なきものであるぞ。

善と真のはたらきを完全にするには、

善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。

とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、 区別することによって結ばれるのであるぞ。

しなければならん。

すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。

大き喜びとなる。

このこと日月の民には判るであらうな。

道は三つぞ。

合点ぢゃなあ。

小の中に大あるぞ。無の中に有(ウ)有るぞ。

もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、

益々純なものあるぞ。

神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。

(ウム)よく見て下されよ。

はそのままでないぞ。

真はそのまま真でないぞ。

善はナマでは善でないぞ。

はナマではでないぞ。

入れて、結んで解けてヨロコビとなるのざ。

ヨロコビ生命ぞ。

宇宙の総て生命であるぞ。

(一月一日)

白銀の巻 第02帖 (613)

使用された特殊文字    


霊ばかりよくてもならん。

体ばかりよくてもならん。

もちつもたれつの世であるぞ。

判らんのは、われが偉いと思ってゐるからぞ。

め覚めれば その日その時からよくなる仕組、

結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道。

の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。の中には総てを取入れて理解出来るやうに】

なってゐるのであるぞ。

の中に悪入れてはならんぞ。

(一月二十二日)

黒鉄の巻 第17帖 (635)


からはなれた理解はないぞ。

善からはなれた真理はないぞ。

タネなくて芽は出ん道理。

人間ので判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、

神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らんのぢゃ。

判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、

愈々になりたら道ないことぞ。

学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。

気の毒ぢゃなあ。

人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。

成長して行くのぢゃ。

血はによって生き、

はヨロコビによって生きるのぢゃ。

ヨロコビなき所にはないのざぞ。

ないところ生命(イノチ)栄えんぞ。

(一月二十二日)

黒鉄の巻 第19帖 (637)

使用された特殊文字 


顔まで変ってゐるのに未だ気づかんのか。

病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。

何事も早い改心結構。

自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。

その中に又心あり、

又中に心があるのぢゃ。

心は神界ぞ。

霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。

うなぎつかみと申してあらうが。

ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。

掴むには身と魂と一つに和せねばならん。

からとが生れると申してあらうが。

との和合によってが又生れるのぢゃ。

は喜びであるぞ。

の別のであるぞ。

そのから又別のが生れ、

又別のが喜びとなり、

その喜びのの喜びと結んで、

又喜びの生れるのぢゃ。

神は額から入って顔全体に至り、

全身に及ぶものであるぞ。

(一月二十二日)

黒鉄の巻 第22帖 (640)

使用さされた特殊文字 


思ふようにならんのは、

天地の弥栄、

育成化育にあづかって働いていないからぞ。

今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。

神示よめよ。

秘文(ヒフミ)世界にうつせよ。

早ううつせよ。

早ううつせよ。

人間ののみでは世界はよくならん。

裏側だけ清めても総体は清まらん。

神にめざめねばならん。

にも内のものと外のものとがある。

と申せば何でもよいと思ふていてはならん。

の悪もあるぞ。

総てこの通りぢゃ。

上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、

偶然と見へるのぢゃ。

神からの現われであるから、

その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。

偶然の真理さとれと申してあろう。

これが判れば大安心。

立命。

春の巻 第15帖 (672)


扶桑の巻 第08帖 (008)

平坂の 岩戸(言答)ひらけむ 音のきこゆる。

神に怒りはないのであるぞ、

天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。

太神はにましまし、

真にましまし、

善にましまし、

美にましまし、

数にましますぞ。

また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、

若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れて了ふのであるぞ。

救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、

その東とは、東西南北の東ではないぞ、

このことよく判りて下されよ。

今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、

ウシトラとは東北であるぞ、

ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、

地(千、)の元の、

天地の元の元の元の神ぞ、

始めの始め、終りの終りぞ、

弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。



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