善 悪 交流で検索抽出
|
|---|
jula です。 思うことがあって善 悪 交流で検索抽出してみました。 意識しつつも自分が惹かれてしまうもの(趣味、興味、性向、好み(より見えやすい物 、事))や、知らず知らずに惹かれてしまうもの惹き付けてしまうもの、こと(他人の 言葉に対しての反応、自分の近くに居る存在、(見えにくい感性、感覚、親しみ))な どを時に振り返ってみたり意識してみる事も必要かもしれませんね。 自分の場合は・・・
みたいなところに惹かれるようです。 ですので、どうしてもオリジナリティーを出したいとか、自分を出さずには居られない 、兎に角自己を主張するといったものとは違うみたいです。 このため、
なんて事を好むようです。 とすれば、それを応用して自分なりに再構成するなんてのもあるのでしょうが、なかな かそこまで辿りつきません。 完成させる事、オリジナリティーを盛り込む事が最終点にある訳ではなく、解明してい く、照合してみる、仮定して見る、その仮定で無駄な知識を仕込む、そのような事に興味が あり、惹かれるようです。 判った気になりたいってとこでしょうか。 ロックさんみたいに当って砕けろ〜、が出きるのは凄いなと思います。 みなさんは何に惹かれる、惹きつけられてしまうのでしょうか。
|
神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。 太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。 一定不変の神もなければ、宇宙もない。 常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。 過去もなければ、現在もなく、未来もない。 只存在するものが生れに生れつつある。 生もなければ死もない。 善も思わず真も考えず美も思わない。 只自分自身のみの行為はない。 只生れゆき栄えゆくのみである。 善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。 故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。 何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。 思うことは行為することである。 生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。 存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。 何ものも、それ自らは存在しない。 弥栄しない。 必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。 また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。 地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。 また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。 また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。 しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。 善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。 霊人に空間はない。 それは、その内にある情動によって定まるが故である。 また、その理によって一定せる方位もない。 また時間もなく只情動の変化があるのみである。 地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。 創造されたものならば、永遠性はあり得ない。 宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。 その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。 只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。 存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。 それは それは、善でもなく悪でもない。 真でもなく偽でもない。 美でもなく醜でもない。 また愛でもなく憎でもない。 プラスでもなければマイナスでもない。 しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の地震の巻 第01帖 (378)
|
その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。 その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。 何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。 秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。 しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる。 其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。 一なるものは、平面的には分離し得ない。 二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。 分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。
一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。 しかし、大歓喜にまします太神の≠ヘ、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。 霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。 生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。 即ち、死後は生前の形式による。 形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。 而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。 愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。 これら二つが相関連せるを外の真と云う。 外の愛も外の真も共に生命する。 人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。 表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。 故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。 許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として 地震の巻 第02帖 (379) ![]()
使用された特殊文字
|
同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、 然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。 同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。 生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ず る。 同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、 兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。 生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思 想系をもつ。 但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も 生じてくる。 また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。 霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違 し、同一のものは一つとしてない。 そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのであ る。 生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす 顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されな い。 一時的に満たすことはできても、長くは続かない。 この情態の原理は、地上人にも、反影している。 生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の 大きく、少なければ、その集団は小さい。 数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名 で一つの社会をつくる団体もある。 各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集 団が自らにしてでき上がっている。 そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占 め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されてい る。 若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。 而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜 によって自ら定まっているのである。 またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。
総ては
しかし、この場合も これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。 悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのであ る。 生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。 許されているから存在し行為し現われているのである。
この場合の悪は、悪にあらずして 即ち、道を乱すが故である。 地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。 愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。 その根底力をなすは歓喜である。 故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛 を、愛の悪と云うのである。
その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、 生前の世界、死後の世界 を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。 大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。 千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓 喜である。 完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。 されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。 其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。 故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。 其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。 霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。 一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととな る。 地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。 しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地 上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。 悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。 何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。 悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからで ある。 霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓 喜し、弥栄するからである。 霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。 生長、呼吸、弥栄は、そこに歓 喜となり、神と現われ給うのである。 霊人も子を生むが、その子は歓喜である。 歓喜を生むのである。 地震の巻 第04帖 (381)
![]()
使用さされた特殊文字
|
|
|
![]()
|
![]() |
![]() |
|
|||
|
|