橘氏と天孫降臨
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ひふみの祝詞に 「筑紫 ・・・ひむかの橘のおとど・・・」 とあります。 この前後関係から、この人物の時代に、何者かが降臨したような説明があります。 ここで、ひむか=日向のことのようです。 なぜなら、その前に筑紫という地域の表現があるからです。 この「ひむか」は 「筑紫の日向の高千穂の峰・・・」 ですから、天尊降臨したと言われている高千穂の峰のことを指しているようです。 (UFOから、かなりど派手に高千穂の峰に降りたものがいたようです。 人々が見ていたのでしょうから、以後の伝説となったと考えられます) 次に「おとど」ですが、これは、おとど=大臣ですから、この時代に「橘」を名乗る一族の名前とも受け取れます。 そこで、橘氏について調べると、奈良時代から平安時代に繁栄した貴族のようで、藤原氏によって追い落とされ没落していった貴族であるようです。 ここで、問題なのは、大和朝廷の重臣の橘氏とすると、奈良時代に 「筑紫の日向の高千穂の峰・・・天尊降臨」 となりますので、奈良時代に天尊降臨したとなり、大和朝廷の成立の年代とも矛盾してしまいます。 「おとど」=大臣から追跡すると橘氏となるために発生する矛盾と考えられます。 どうやら、この人物は、宮崎県の日向地方にあった、大和朝廷の前、大和へ移動する前に存在していたようです。 ので、この大和朝廷の橘氏と異なり、遙かそれ以前の伝説的な「橘」のことを指していると考えられます。 その、なにやら特別に価値のある「橘」を県犬養宿禰三千代が、和銅元年(708年)元明天皇より賜ったということのようです。 今回の調査では、その以前の「橘」については 残念ながら情報不足で、わかりませんでした。 どなたか、思い当たるようでしたら、よろしく連絡をお願いします。
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橘氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 橘(たちばな)氏は、日本の奈良時代から平安時代に繁栄した貴族で、県犬養宿禰三千代が、和銅元年(708年)元明天皇より賜った氏姓「橘宿禰」(のち「橘朝臣」となる)を姓とする氏族である。 いわゆる源・平・藤・橘の四姓の一つであり、公卿に成ることの出来る名門の姓の一つとされている。 橘氏の起源は母の三千代だが、名門貴族としての橘氏は、橘諸兄・橘佐為の兄弟を起源とする。 元々、敏達天皇の子孫であった葛城王(橘諸兄)と佐為王(橘佐為)は、聖武天皇の天平8年(736年)に臣籍降下を申し出、橘宿禰の氏(うじ)・姓(かばね)を賜る。 その後、光明皇后の同母兄であった橘諸兄は、藤原四兄弟の相次ぐ病死によって頭角を現し、738年には、右大臣に成っている。正一位左大臣まで上り詰め、その功績で、天平勝宝2年(750年)正月、朝臣の姓(かばね)を賜る。しかしながら、藤原仲麻呂が勢力を伸ばすと隠居。その息子の奈良麻呂は、諸兄の死後、反乱を起こし処刑されている(橘奈良麻呂の乱)。佐為の娘(奈良麻呂からみて従兄弟)が聖武天皇の妃だった事が幸いして、連座者は少なかったもののこれによって一時的に姓を旧の「宿禰」に戻される事になった(光仁天皇の時代に再び朝臣に戻される)。 その後、しばらく橘氏は目立った動きをしていないが、奈良麻呂の孫の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となりその皇子が仁明天皇になると勢力を盛り返し、弟の橘氏公とともに、学館院を建てて子弟を教育した。氏公は従二位右大臣にまで出世している。 しかしながらその後、橘氏は藤原氏との政争に敗れ、中央から地方に散っていき徐々に没落していった。しかし、地方では諸兄の子孫の橘広相の子で、藤原純友の乱の時に純友の弟の藤原純乗追討に功のあった大宰権帥の橘公頼の子孫のように九州に下り武家となった一族(筑後橘氏)もいる。 橘氏には、この中央の橘氏の他に、伊予国の越智氏の流れを汲む橘氏(伊予橘氏)がある。藤原純友の乱の時に追捕使長官小野好古、追捕使主典大蔵春実の下にいて活躍した伊予国警固使橘遠保は、伊予の橘氏である。その後、遠保は、中央の橘氏の一族と縁戚となり、その一族となっている。後の楠木正成は本姓を橘としたが、橘遠保の子孫とされている。
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一族 県犬養橘三千代 橘諸兄 (葛城王)− 三千代の子。 橘佐為 (佐為王)− 三千代の子。 橘奈良麻呂 − 諸兄の長男。 橘島田麿 − 奈良麻呂の子。 橘清友 − 奈良麻呂の子。嘉 智子の父。 橘氏公 − 清友の子。 橘岑継 − 氏公の子。 橘逸勢 − 能書家。 橘広相 − 諸兄の5代後。学者。陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の3代に仕える 橘公頼 − 広相の五男。大宰権帥。藤原純友の弟の純乗を筑後の蒲池城で迎え撃つ。 橘敏通 − 公頼の三男。藤原純友・純乗追討に活躍。筑後国蒲池の領主となる。 橘永ト − 歌人。能因法師。 橘遠保 − 伊予の橘氏。元は 越智氏。藤原純友の征討に活躍。 橘公長 − 平安時代末期の武士。広相の次男の橘公材の九代後。平宗盛を処刑。 小式部内侍 − 歌人。
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派生氏族等 有良朝臣 広岡朝臣 蒲池久直 − 嵯峨源氏。橘公頼、橘敏通の子孫である筑後橘氏を同族化し蒲池氏の祖となる。 楠木正成 − 橘氏の末裔と言われているが、その橘とは伊予橘氏とされる。
![]() http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%A3
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 大臣 君主の臣下団のなかでもっとも地位の高い臣下を指す大臣(たいしん)。大身を参照のこと。 政事を行なう高官。本稿で述べる。
![]() 大臣とは、政事を行なう高官。日本では時代により読み方・意味が異なる。 [編集] 大和王権 大臣「おおおみ」と読み、大和王権時代の姓(かばね)の一つの臣(おみ)の有力者が就任した。蘇我氏などが挙げられる。 [編集] 律令制 大臣「だいじん」は律令制における太政官の長官。「おとど」・「おおいもうちぎみ」・「おおまちぎみ」・「おおまえつぎみ」とも称された。 官位相当としては従二位から正一位までの位階が大臣の官職と相当している。律令体制下における大臣としては太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣といった官位が設置されており、また大臣たるべき廷臣がいながら、その席がない場合は准大臣が任ぜられた。これらは貴族としても最高位の栄達を意味する地位である。また、大臣は氏の下に朝臣、名の下に"公"とつけて敬称するが、大臣のうち、太政大臣、左大臣、右大臣は三公といって太閤と称されることもあった。 大臣の住いを御所、大臣が亡くなることを「薨御」といい、皇族並の権威を持っていたことを意味している。特に江戸時代、三公は親王よりも上位とされてその権威は高かった。 基本的に太政大臣は則闕の官といわれ、いわゆる名誉職的意味が強く、空位とすることが許された。よって、基本的に大臣の最上位としては左大臣を指すことが多い。特に左大臣や右大臣は空位となることはなく、あえて任命されずに空位となる状態は「大臣闕」(だいじんけち)といわれた。また、大臣に任命されることは「大臣召し」といい、さらに大臣が任命された時、または大臣が毎年の正月を迎えた場合は「大臣の大饗」といって多数の客人を自邸に招いて饗応することとなっていた。なお、大臣のうち内大臣や准大臣は律令に規定のない令外官である。 また、大臣位のことを台位または槐位などともいう。特に太政大臣を相国或いは承相といい、現内閣総理大臣を首相、宰相という様に古代から現代通じて大臣の通称としては相の字があてられる。律令体制下の左大臣は「左府」あるいは「左僕射」、右大臣は右府或いは右僕射といった。内大臣は内府などといい、准大臣は儀同三司という別称があった。天皇の意思、意向を叡配というのに対して、大臣の意思・意向は台慮という。 太政大臣などは当初、天智天皇が第一皇子である大友皇子を任命するなど皇族が任じられる場合もあった。しかし、すべての時代を通して一部の例外を除いてほぼ源平藤橘の四大氏族、特に藤原氏と源氏を中心に任じられたといってよい。 特に蘇我氏の失脚後は藤原氏が摂関政治を行う過程で重要な地位を占める。奈良時代には皇親である橘諸兄をはじめとした橘氏を政界中枢から追放することに成功。称徳天皇の寵愛を受けた物部氏一族の支流弓削氏の出身である道鏡が太政大臣禅師、そして法王の地位まで上り詰めると藤原氏は窮地に立った。しかし、道鏡が皇位を望み結果として失脚すると、再び藤原氏による王朝文化が花開いた。また、学者である菅原道真が右大臣として登用された折も左大臣藤原時平が讒言して大宰府に左遷させるなど、朝廷における藤原氏を脅かす存在は尽く追放か排斥などを受けている。皇族から臣籍降下した嵯峨源氏や醍醐源氏、村上源氏も政界に入ると大臣の職を得て力をつけていくこととなり、再び藤原氏とも権勢を競う勢力が登場するとこうした勢力とも政権を巡って争うこととなる。しかし、王朝文化に傾倒し地方政治を省みない藤原氏は天下の騒乱の解決手段として、武家を家人として養うことでこれにあたらせ、地方からの搾取はしても当地の実態を省みることはなかった。朝廷や権勢貴族の下で次第に実力をつけていった武士は次第に貴族たちの権勢を巡る争いにも参入することとなり、それがきっかけとなって下級貴族に甘んじていた武家も政界への進出をすることとなる。 武家としてはじめて大臣に昇ったのは桓武平氏の一流伊勢平氏であり、保元の乱・平治の乱で朝廷に貢献し、宿敵の源氏を倒した平清盛が太政大臣にまで上り詰めた。その後、清盛が死去し、源氏の逆襲によって平氏の滅亡、源頼朝により鎌倉幕府が成立した後に、3代将軍源実朝が右大臣にまで昇ることとなった。室町時代に入り足利義満が将軍兼帯で内大臣・准后に就任し、以降征夷大将軍就任と同時に大臣に任ぜられるのが慣例となり、江戸時代に至ってもその慣習が続いた。 なお、代々この職に就くことが許される家柄としては、公家では、摂家・清華家・大臣家であり、これらの公家が主に朝廷の大臣を占めていた。武家としては足利将軍家の他、織田信長、豊臣秀吉、織田信雄や徳川家康をはじめ徳川将軍家などが武家として大臣となった。また、公家の中で大臣につく家柄ではなかった日野家などは代々、足利将軍家の縁戚として左大臣まで出すなど、時として家格を越える出世をする者もあった。 これらの家格の家は主に明治において公爵や侯爵の爵位を賜り、貴族院議員を輩出するなど近代でも活躍した。 [編集] 内閣制度 現在における大臣(だいじん)とは、国務大臣のことをいう。 明治期に太政大臣三条実美の後に西欧の政府機構を模倣した内閣制度が発足し、初代内閣総理大臣伊藤博文を中心に国務大臣と内閣を形成して、それまでの太政官に代わって国政の中枢を担った。なお、内大臣の職は内閣制度発足以降も存在したが、国務大臣には含まれず内大臣府にあって"閣外の大臣"として主に政務ではなく天皇の補佐に務める職務として置かれた。 内閣総理大臣を含めて国務大臣とする場合と含まない場合があるが、一般的には内閣総理大臣は総理と呼称されることから、大臣という場合はほぼ国務大臣の場合が多い。国務大臣とは内閣の構成員を指す。特に現在などは、国務大臣は各省大臣と無任所大臣に別れて、官庁の長と特定の政策分野の担当大臣とに大別されている。報道等でなされる「〜相」という表現は、「〜大臣」の略称である。 かつて日本では、子供の将来の理想像を表現して「末は博士か大臣か」と言い、「大臣」になることが、世間的には最高の栄達と考えられていたことがある。政治家における栄達の象徴でもある、大臣になりたいと思う政治家も多く、それが過剰な状態を揶揄して大臣病ということが多い。最近では、政治家の汚職が相次ぎ、政治不信がことの他大きくなっていることから、政府の責任者たる大臣はじめ副大臣や大臣政務官も大臣規範に基づいてその地位に相応しい言動に務めることとなっている。 なお、内閣制度を参照・模倣した関係から諸外国とりわけヨーロッパ諸国及びその内閣制度を元にした制度を有する国においてはその構成員を、大統領制を布き内閣制度を有しない場合で政策毎で招集される構成員が異なる場合には所轄する国家機関の長にこれを用いる場合がある。但し、アメリカ合衆国など慣例上大統領制を布き内閣制度を有しない場合、所轄する国家機関の長にこの称を用いず、「長官」を用いることが多い。この場合、基本的には日本の所轄官庁でこの称を用いない場合ないしは当てはまる独立した官庁がない場合にはこれを用いない場合もある。 この項目「大臣」は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。
![]() 橘氏の系図です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/
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ロックです。 太陽さんが提示された橘に関連するかどうかわかりませんが、気になる方が“惑星の真実”のホームページによく写真の分析の投稿をされてた方がいました。 名前を以前は景行天皇を名乗り、今は名前が違うハンドルネームに変えている方です。 確か宮崎県出身の方で気になる話が過去ログにあったと思いました。 景行天皇を名乗っていた当時に、何故そんなハンドルネームにしたのかコメントしていた内容が気になってました。 PCが駄目なので内容を捜せないのですが、天皇に関する何かの話をしてました。 一年以上前のことなのでうろ覚えですが報告まで。
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ロックさん、景行天皇の件です。 下記の情報ですと、景行天皇は 二人居るようです。 http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/mouhito.htm
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