“二人”で検索・抽出
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jula です。
とありま すが、何故でしょうね。 はい、ではSuperMatrix検索〜〜。 (また長くなっちゃいますがお許しを〜〜)
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二人
御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めて呉れよ、 皆のものに手柄さし度いのぞ、 一ヶ処(ひとところ)の御用 二人宛(づつ)でやりて呉れよ、 結構な御用であるぞ、 いづこも仮であるぞ、 世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ、 今は型であるぞ、 祀れと申してあること忘れるなよ、 まつはらねばならぬのざぞ、 神がついてゐるのざから神の申す通りにやれば箱指した様に行くのざぞ。 産土神(うぶすなさ ま)忘れずにな。 十二月十九日、ひつ九か三。 日の出の巻 第17帖 (230)
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まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。 恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。 因縁あるミタマでも曇りひどいと、 御用六ヶ敷い事あるぞ、 神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、 五十九柱いくらでもあるのざぞ、 かへミタマあると申してあろがな、 務めた上にも務めなならんぞ、 因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、 岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、 岩戸開きにも悪きあるぞ、 気付け合ってよき御用結構ざぞ、 勇んで務め下されよ。 心から勇む仕事よき事ぞ、 此の方の好く事ざぞ。 木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、 紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、 他で判らん根本のキのこと知らす此の方 の神示ぢゃ、 三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。 落ち付いて聞き落しのない様になされよ、 悔しさ目に見へておろがな、 どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、 神の国 臭くて足の踏場もないぞ、 なれども見て御座れ、 三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。 地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、 目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、 尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、 あんまりな事ぢゃなあ。 是までは高し低しの戦でありたが、 是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、 誠とはコトざぞ 口でないぞ、 筆でないぞ コトざぞ、 コト気付けと申してあろがな。 コト、コト、コト、ざぞ。 始めウタあったぞ、 終もウタぞ、 今も昔もウタざぞ、 人民も動物もウタ唄ふのざぞ、 終の御用の始はウタぞ、 ウタの集団(つどひ)とせよ。 此の神示ウタとして知らす集団とせよ、 ウタの集団 始ざぞ、 表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、 道開く表の終の御用ぞ、 江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、 カイの御用も忘れてならんのざぞ。 食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、 カイの御用の事ぞ、 此の集団も表に出してよいのざぞ、 時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。 不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。 世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下 されよ、 二人でしてくれと申してあろがな、 判りたか。 十二月十八日、 ひつくのかみ神示。 雨の巻 第13帖 (347)
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岩戸開きにも悪きあるぞ、 気付け合ってよき御用結構ざぞ、 勇んで務め下されよ。 世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落 ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、 二人でしてくれと申し てあろがな、 判りたか。
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イザナギばかりでは八方までの拡がりまでしか出せません。 やがては八方塞がりと成ってしまいます。
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故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。 天国の政治は、愛の政治である。 政治する政治ではない。 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる。 天国は、限りなき団体によって形成されている。 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、 最内奥の歓喜によりなされるのである。 統治するものは一人であるが、 二人であり、 三人として現われる。 三人が元となり、
その中心の一人は、
他の二人は、
統治者の心奥の
更に内奥に位する
統治され、立体
天国では、この 歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、 オとウとひらき給い、 続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、 エ、イは真である。 これら天国の組織は、人体の組織と対応し、 天国の一切の事象と運行とは、 人体のそれに対応している。 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。 これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。 よりよく奉仕するのみである。 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、 善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、 これらの総てを神の力として生かし、 更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。 また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、 他の善と真とを先とし、 その歓喜を先ずよろこび、 己はその中にとけ入る。 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、 団体の歓喜となるのである。 指令することは、戒律をつくることであり、 戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。 天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、 更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。 一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、 前記の如き原則を体している。 またその家族たちは、主人の働きを助け、 主人の意を意として働く。 その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。 即ち、歓喜の政治であり、 経済であり、生活であり、信仰である。 天国に於ける天人、霊人たちは、 常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。 歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、 より高き歓喜に進んで行くことである。 けれども、天国における礼拝は、 地上人のそれの如き礼拝ではない。 礼拝生活である。 総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。 与えられたる仕事を礼拝し、 仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。 故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。 しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。 地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、 天国に於ける礼拝は、千変万化で、 無限と永遠に対するものである。 無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、 その弥栄が神の用である。 森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、 この無限と永遠を知り、 あらゆる形において変化繁殖するを見て、 無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。 天国の政治は、光の政治である。 天国にも地上の如く太陽があり、 その太陽より、光と、熱とを発しているが、 天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。 一は月球の如き現われ方である。 一は火の現われ、火の政治であり、 一は水の現われ、水の政治である。 愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、 智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。 月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、 各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、 神は常に光と熱として接し給うのである。 またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。 光と熱とは、太陽そのものではない。 太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、 その内奥はいずれも大歓喜である。 光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。 このことをよく理解するが故に、 天国の政治は、常に光の中にあり、 また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。 天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、 その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、 現われ出たものが真と見え、 愛と感じられるのみである。 太陽の内奥は大歓喜が存在する。 故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、
遥かにそれらを超越した歓喜の
この歓喜の 多くの天人、天使たちには感じられるのである。 歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、 また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。 地震の巻 第19帖 (396)
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一は月球の如き現われ方であ る。 一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。 愛を中心 とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として 仰ぐ。 月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであっ て、神は常に光と熱として接し給うのである。 またそれは、大いなる歓喜として現わ れ給う。 光と熱とは、太陽そのものではない。 太陽は、火と現われ、月は、水と現わ れるが、その内奥はいずれも大歓喜である。 光と熱とは、そこより出ずる一つの現わ れに過ぎないことを知らねばならぬ。 このことをよく理解するが故に、天国の政治 は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。 智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。 太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。 愛と智両者が必要なようです。 お互いに気づけ合ってくれよということのようです。
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大臣(おとど)は火と水と二人でよ いぞ、ヤとワと申してあろが、 ヤ、ワ、は火の中の水、水の中の火であるぞ、 後はその手伝いぞ、 手足ざぞ、役人 自(おのづか)ら出来るぞ。 ヤクはヤクであるぞ、今迄は神国と外国と分れてゐたが、愈々一つにまぜまぜに致してクルクルかき廻してね り直して世界一つにして自ら上下出来て、一つの王で治めるのぢゃぞ。 人民はお土で こねて、神の息入れてつくったものであるから、 もう、どうにも人間の力では出来ん 様になったら お地(つち)に呼びかけよ、 お地(つち)にまつろへよ、 お地(つ ち)は親であるから親の懐(ふところ)に帰りて来いよ、 嬉し嬉しの元のキよみがへ るぞ、 百姓から出直せよ。 ミロク様とはマコトのアマテラススメラ太神様のことでござるぞ。 六月十七日、 ひつくの神。 光の巻 第05帖 (401) |
この帖は最近の憑依関連、産土関連の話題に言及している感じですね。 もう一歩解読が進むと、何を言っているのかもばっちり分かっちゃいそうですね。
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四足(よつあし)と天狗ばかり ぢゃ、 まあまあやりたいだけやりて見なされ、 神は何もかもみな調べぬいて仕組みてあるのぢゃから、性来だけの事しか出来んから、愈々となりて神にすがらなならんと 云ふ事判りたら、 今度こそはまこと神にすがれよ、 今度 神にすがること出来んなれ ば万劫末代 浮ばれんぞ。 したいことをやりて見て得心行く迄やりて見て改心早う結 構ぞ。 ミロクの世のやり方 型出して下されよ、 一人でも二人でもよいぞ、 足場早う つくれと申してある事忘れたのか。 尾振る犬を打つ人民あるまいがな、 ついて来る人 民殺す神はないぞ、 ミロク様が月の大神様。 十二月四日、
一二 梅の巻 第20帖(447)
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実地ざぞ、遣り直し出来んのざぞ。 早う足場つくれと申してあろがな、 三千の足場つくったら神の光出ると申してあらうがな、 足場つくれよ、 アジヤ足場ぞ。 足場なくては何も出来ん道理 人間にも判らうがな、 何より足場第一ざぞ、 世界の民の会二人でやれよ、 一人でしてならんぞ、 くどう気つけあらうがな。 あなさやけ、 あなすがすがし。 六月十日、
ひつ九 青葉の巻 第04帖 (473)
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一人でしてならんぞ、
くどう気つけあらうがな。?
良く分かりません →“民の会”で検索しました。 末尾参照願います。 (しかし良くは分かりませんでし た・・・)
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二人でせよと申してあるのは裏表合せて一つぞ。 二人で一人でせねばならん。 統一ないところ力生れんぞ。 人民の奉仕は神へ の奉仕、 生活は奉仕から生れる。 世界は大きな田畠、 それ蒔け、それ蒔け、種を蒔 け。 黄金の巻 第039帖 (550)
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二人で一人でせねばならん。 統一な
いところ力生れんぞ。
どちらか片側ばかり頑張っても、 片輪車トンテントンテンで同じ所をグルグル巡るば かり、という事なのでしょうね。 お土から産まれたもの達は、その土の上で種を撒いて、また更に新たなる弥栄を(百 姓のように)育みなさい。 おそらく、ひふみのあちこちで出てくる“百姓”とは、土から産まれ土と共に生き、 土を育む者達というような事を言っているのでしょうね。
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一人一 人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。 それは地獄の悪のやり方。 一人一人 は力弱くとも一つに和して下されよ。 二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出 るぞ。 それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。 誰でも 死んでから地獄へ行かん。 地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。 曲って世界 を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。 其処に幽 界出来るのぢゃ。 有りてなき世界、有ってならん。 (一月三日) 黄金の巻 第094帖 (605)
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この巻しろかねの巻。 天国ぢゃ、 霊国ぢゃ、地獄ぢゃ、浄土ぢゃ、穢土ぢゃと申してゐるが、 そんな分けへだてはないのであるぞ。 時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあるのぢゃが、 時節到来したので、 まことの天地のことわりを書き知らすぞ。 三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。 この世も亦三千に分れ、 更に五千に分れてゐるぞ。 このほう五千の山にまつれと申してあろう。 今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ。 人民のタネによっては七つしか分らんのであるぞ。 日の光を七つと思うてゐるが、 八であり、九であり、十であるぞ。 人民では六つか七つにしか分けられまいが。 「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。 【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」 と申してあらうが。
八つの世界とは、 八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、 と考へてよいのぢゃ。 キとは気の気であるぞ。 その他に逆の力があるぞ。 九と十であるぞ。 その上に又霊の霊の固から始まってゐるのであるが、 それはムの世界、 無限の世界と心得よ。 霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、 皆直ちには判らないのであるぞ。 判らんことは判らんと、 わからねばならんと申してあらうがな。 天、息吹けば、地、息吹くと申してあろう。 このことよくわきまえよ。 地の規則、天の規則となることあると申して知らしてあらう。 この大切こと忘れるでないぞ。 おもひの世界が天ぞ。 にくの世界が地ぞ。 おもひは肉体と一つぞ。 二つぞ。三つぞ。 おもひ起って肉体動くぞ。 肉体動いておもひ動くこともあるぞ。 生れ赤児の心になって聞いて下されよ。 何も彼も、ハッキリうつるぞ。 陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、 タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、 別のミナカヌシ、
現はれるぞ。 一であり、二であり、三であらうがな。 三が道と申してあろう。 陰陽二元でないぞ。 三元ぞ。三つであるぞ。
このこと先づ心得て下されよ。 そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。 さうではあるまいがな。 三人から生れ出てゐること判るであらうがな。 どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。
その中に又 限りないのざと知らせてあらうが。 そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。 このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。 そなた達も八人、 十人の人によって生きてゐるのぞ。 又十二人でもあるぞ。 守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、 段々変るのであるぞ。 自分と自分と和合せよと申すのは、 八人十人のそなた達が和合することぞ。 それを改心と申すのざぞ。 和合した姿を善と申すのぢゃ。 今迄の宗教は肉体を悪と申し、 心を善と申して、 肉体をおろそかにしてゐたが、 それが間違ひであること合点か。 一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。 地獄ないこと合点か。 悪抱き参らせよと申してあること、 これで合点か。 合点ぢゃナア。 各々の世界の人がその世界の神であるぞ。 この世ではそなた達が神であるぞ。 あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。 それがカミと申してゐるものぞ。 あの世の人をこの世から見ると神であるが、 その上から見ると人であるぞ。 あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。 裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。 心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。 肉体が心を守ってゐるのであるが、 ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。 何処迄も下に従ふのぢゃ。 順乱すと悪となるぞ。 生れ赤児ふみこえ、 生れ赤児になって聞いて下されよ。 そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ。 死と云ふことは、 その衣、上からぬぐことぢゃ。 ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。 判るやうに申してゐるのぢゃぞ。 取違ひせんやうにせよ。 天から気が地に降って、 ものが生命し、 その地の生命の気が又天に反影するのであるが、 まだまだ地には凸凹あるから、 気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。 その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。 幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ。 (十二月十四日) 白銀の巻 第01帖 (612)
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にくの世界が地ぞ。 おもひは肉体と一つぞ。 二つぞ。 三つぞ。 おもひ起って肉体動くぞ。 肉体動いておもひ動くこともあるぞ。 生れ赤児の心になっ て聞いて下されよ。 何も彼も、ハッキリうつるぞ。 陰と陽、右と左、上と下、前と 後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、別 のミナカヌシ、現はれるぞ。 逗、髄、瑞、崇、推、雛、枢、趨、卍、人、食、杉、よ く見て下されよ。 一であり、二であり、三であらうがな。 三が道と申してあろう。 陰 陽二元でないぞ。 三元ぞ。 一と二が和合して三となり道となる。 故に一のみではなく二人で力合わせてやって下されという感じのようです。
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五人あるぞ、中二人、外三人、 この仕組 天の仕組。 一切と手をつながねばならん。 人民のみで世界連邦を つくろうとしても、それは出来ない相談、 片輪車と申してあろうが、 目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、 タテのつながりつけねばならん道理、 人民同士の横糸だけ では織物にはならんぞ。 天は火ぞ、地は水ぞ、 火水組み組みて織りなされたものが、 ニシキの御旗ぢゃ、 ヒミツの経綸であるぞ。 扶桑の巻 第09帖(858)
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その守護神を加へて二十二柱、 二十二が富士ぢゃ、 真理ぢゃ、 又三であるぞ、 今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかった のであるが、 岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、 このことよく わきまへよ。 星座の巻 第15帖(898)
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真通理
まゐりた臣民にそれ ぞれ分けて喜ばして呉れよ、 臣民喜べば神も喜ぶぞ、 神喜べば天地光りて来るぞ、 天 地光れば富士(二二)晴れるぞ、 富士は晴れたり日本晴れとはこの事ぞ。 このやうな 仕組でこの道ひろめて呉れよ、 それが政治ぞ、経済ぞ、真通理(マツリ)ぞ、 分りたか。 八月の三日、ひつ九のか三。 下つ巻 第31帖 (073)
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まつり合はしさへすれば、 何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、 悪も善もないのぞ、 まつれば悪も善ぞ、 まつらね ば善もないのぞ、 この道理分りたか、 祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も 分らんぞ。 そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、 早うまつりて呉れと申すこ と、よくきき分けて呉れよ。 われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証 拠ぞ、 鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、 この御道は鼻 高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、 慢心と取りちがひは調和(まつ り)の邪魔になるからぞ。 ここまでわけて申さばよく分かるであろう、 何事も真通理 (まつり)が第一ぞ。 八月の二十九日、
富士の巻 第22帖 (102)
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御用はそれぞれの役員殿 手分けて努めて呉れよ、 皆のものに手柄さし度いの ぞ、 一ヶ処(ひとところ)の御用 二人宛(づつ)でやりて呉れよ、 結構な御用であ るぞ、 いづこも仮であるぞ、 世が変りたら結構に真通理(まつり)呉れよ、 今は型で あるぞ、 祀れと申してあること忘れるなよ、 まつはらねばならぬのざぞ、 神がついて ゐるのざから神の申す通りにやれば箱指した様に行くのざぞ。 産土神(うぶすなさ ま)忘れずにな。 十二月十九日、 ひつ九か三。 日の出の巻 第17帖 (230)
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今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、 戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、 あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、 早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、 肉体のこわさではないぞ、 タマのこわさざぞ、 タマの戦や禍は見当とれまいがな、 真通理(まつり)第一と申すのざ、 神のミコトにきけよ、 それにはどうしてもミタマ磨いて 神かかれる様にならねばならんのざ。 神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や 狸つきではないぞ。 まことの神かかりであるぞ。 右行く人、左行く人とがむるでないぞ。 世界のことは皆、 己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、 この道理わかりたか、 この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、 今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、 神がつぶすのではないぞ、 自分でつぶれるのざぞ、 早うこの神示、 魂にしてマコトの道に生きてくれよ、 俳句は俳句と申してあるが、 天理は天理、 金光は金光だけの教であるぞ。 この神の申すこと、天のミチぞ、 地のミチぞ、 人のミチざぞ。 今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、 すぐによいことばかりではないのざぞ、 二度とないことであるから臣民では見当とれんから、 肚の底から改心して、 すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざ ぞ。 一月七日、
磐戸の巻 第07帖 (243)
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民の会
「世界の民の会」 つくれよ、 人民 拝み合ふのざぞ。 皆にまつろ へと申してあろがな。 まどひつくれつくれ、 皆おろがみ合ふのざぞ、
まどひのしるし
は おろがみ合ふだけの集団(まどゐ)でよいぞ。 理屈 悪ぢゃ、こんな事云は んでも判っておろが、 神示読めよ読めよ。 十月八日、 ひつくの神しるす。 梅の巻 第03帖 (430)
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光の大神様 斎き祀り結構いたしくれよ、 皆に音秘様の分霊(わけみたま)さずけとらすぞ。 お守り、さずけとらすぞ、 光の大神様の信者には御神名さずけとらせよ、 役員には御神石まつりくれよ、 光の大神様の日々の御給仕には十(とう)のカワラケにて供へまつれよ。 役員七つに分けよ、 大道師、権大道師、中道師、権中道師、小道師、権小道師、参道の七段階ぞ、 中道師から上は神人共ざぞ。 世界の民の会は三千世界に拝み合ふのざぞ、 何事も神まつり第一ざと申してあろがな。 大き器持ちて御座れよ、 小さい心では見当とれんことになるぞ。 慢心取違いポキンぞ。 ミタマ何時でも変るのざぞ、 次々に偉い人出て来るから神示よく読んでグングン行って進めよ、 行ふ所 神現はれるぞ、 光の道 弥栄ぞ、 なせばなるのざぞ、 人民どんどん行はなならんのざぞ、 この神示から、ひかり教会から世に出せよ、 この巻「ア火ハ(アオバ)の巻」、 前の巻は「三吹iソラ)の巻」とせよ。 四月二十六日、 ひつ九のかミ。 青葉の巻 第01帖 (470)
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実地ざぞ、遣り直し出来んのざぞ。 早う足場つくれと申してあろがな、 三千の足場つくったら神の光出ると申してあらうがな、 足場つくれよ、 アジヤ足場ぞ。 足場なくては何も出来ん道理 人間にも判らうがな、 何より足場第一ざぞ、 世界の民の会二人でやれよ、 一人でしてならんぞ、 くどう気つけあらうがな。 あなさやけ、 あなすがすがし。 六月十日、
ひつ九 青葉の巻 第04帖 (473)
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五つに咲いた桜花、 五つに咲いた梅の花、 皆始めは結構であったが段々と時経るに従って役員が集まってワヤにいたしたのぢゃ、 気の毒ぞ、 神の名汚しておるぞ。 大日月と現はれたら、 何かの事キビシクなって来て、 建替の守護と建直しの守護に廻るから、 その覚悟よいか。 間違った心で信心すれば、信心せんより、も一 つキビシクえらい事がみちはじめみつようになるぞ。 今に此処の悪口申してふれ歩く人出て来るぞ、 悪口云われだしたら結構近づいたのざと申してあろ、 悪口は悪の白旗ざぞ。 飛んで来て上にとまってゐる小鳥、 風吹く度にびくびくぢゃ、 大嵐来ん前にねぐらに帰って下されよ、 大嵐 目の前。 此処は先づ苦労、 あなたその苦労に勝ちたら、己に克ちたら魂磨けるぞ、 段々と楽になって嬉し嬉しとなるぞ、 結構な仕組、知らしたら邪魔入るなり、 知らさんので判らんなり、 心でとりてくれよ、 世界の民の会なせばなる、 なさねば後悔ぞ。 八月十三日、
一二 海の巻 第01帖 (493)
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良く分かりません。 しかし、三千世界であったり産土神であったり拝ろがみ合うという事であれば、 現界に現れているものどもはお土を大事にして、お互いの意を汲み取りつつ和合して 弥栄しなさい、なんて感じなのでしょうか?
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とありますが、何故でしょうね。 という事で?!、検索した帖は省いて私のコメントダイジェスト〜。 臣人を統括する者?は火(ヤ)と水(ワ)の二人でよいのですよ。 イザナギばかりでは八方までの拡がりまでしか出せません。 やがては八方塞がりと成ってしまいます。 愛{火(ヤ)}と智{水(ワ)} 両者が必要なようです。 お互いに気づけ合ってくれ よということのようです。 イザナギ、イザナミあわせてこそ本当の拡がりある国々神々を産み出す事が出来るのです。
神懸かれた人、神人の事を言っているのかも知れませんね。 どちらか片側ばかり頑張っても、片輪車トンテントンテンで同じ所をグルグル巡るば かり、という事なのでしょうね。
おそらく、ひふみのあちこちで出てくる“百姓”とは、土から産まれ土と共に生き、 土を育む者達というような事を言っているのでしょうね。
一と二が和合して三となり道となる。 故に一のみではなく二人で力合わせてやって下されという感じのようです。 一の現れのひとつがタカミムスヒであり、二の現れのひとつがカミムスヒでありま す。 一と二が和合して働きかけることで、別 のミナカヌシが現はれるのです。
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