“そなた”で検索・抽出NO2
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jula です。 “そなた”を含む帖ざーと眺めてみました。 どうも色々な人や神や霊、一人一人を例に取上げて、直接語っているかのような調子 でした。 しかし一方でやはり 「サタンに向かって語っているのではないか?」 はたまた、サタンと対をなすであろう 「みろく、もしくは封印されたミロク」 に語っているのか?とも とれそうな帖もありました。 “そなた”が出てきたときは、対比される人民であったり、同意語としての人民で あったりが出てくることがあります。 さし当たって、そのあたりから、ひふみを下ろした神は一体誰に語っているのだろう かを勘ぐるしかなさそうです。
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それが苦しいことでも、かなしいこ とでも喜んで迎へよ。 喜ぶ心は喜び生むぞ。 人民よろこべば神よろこぶぞと申してあろ が、天地はれるぞ。 輝くぞ。 そなたは先ばかり見てゐるぞ。 足で歩くのぢゃ。 足もとに 気つけねばならんぞよ。 そなたは自分ひとりで勝手に苦しんで御座るなれど、みなが仲 よう相談なされよ。 相談結構ぢゃなあ。 相談して、悪いことは気つけ合って進んで下さ れよ。 月光の巻 第39帖 (826)
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遠慮いらん。 そなたは一足飛びに二階に上がりた い気持がぬけない。 何事も一段ずつ、一歩づつ進まねばならん。 それより他に進み方は ないのぢゃぞ。 先づそなたの中にゐるけだものを言向け合さねばならんぞ。 よく話し、 教へ、導かねばならん。 けものを人間と同じにしようとしてはならん。 けものはけもの として導かねばならん。 金は金。 鉛は鉛ぞ。 鉛を金にしようとしてはならん。 鉛は鉛と して磨かねばならんぞ。 浄化とはそのこと。 世は七度の大変り、いよいよの段階に入っ たら、何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、あせればあせる程ふか みに落ち込むぞ。 心の窓を大きくひらいて、小さい我の慾をすてると、遠くが見えてく るのぢゃ。 見えたら先づ自分の周囲に知らせねばならん。 知らすことによって次の道が ひらけてくるのぢゃ。 自分だけではうれしうれしとならん。 うれしくないものは弥栄し ないぞ。 冬になったら冬ごもりぞ。 死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。 遊ぶ時は遊ぶがよいぞ 。 コト=言(光透)と、時と、その順序さへ心得て御座れば、何をしても、何を話して も、何を考へてもよいのぢゃ。 月光の巻 第40帖 (827)
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考 へは迷ひと申してあるのは、そなたのような場合ぞ。 そなたは苦に向ひ苦にかったつも りで、苦を楽しんで御座るが、苦は曲ることぞと知らしてあろうが。 苦をつくり出して はならんぞ。 苦を楽しむより、楽をたのしむ心高いぞと知らしてあろう。 苦しむと曲り 、楽しむとのびるぞ。 二月十日。 月光の巻 第41帖 (828)
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そなたは現在に生きる努力が足らん 。 夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ。 そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ 。 先祖はそなたではないか。 地下にあるそなたの根が先祖でないか。 根のない草木はす ぐ枯れる道理ぢゃ。 先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、分家した自分は先祖はま つらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、よく考へて下されよ。 根から芽が出て幹 となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。 枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであ るぞ。 分家しても先祖まつらねばならん。 先祖をおろそかにするでないと、気付けてあ るでないか。 月光の巻 第42帖 (829)
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方便の教とは横の 教、いろはの教、平面の教のことぞ。 仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、 教はみな方便ぢゃ。 教ではどうにもならん。 ぎりぎりの世となってゐるのぞ。 理(ミチ) でなくてはならん。 変らぬ太道でなくてはならんぞ、【方便】の世はすんで【ほうべん 】の世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。 理とは三界を貫 く道のことぞ。 字宙にみちみつ 法則ぞ。 秩序ぞ。 神の息吹きぞ。 弥栄ぞ 。 喜びぞ。 判りたか。 月光の巻 第43帖 (830)
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借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。 損もよい、病気もよいぞと申してあろうが 。 此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなっ たから、早う神心になって下されよ。 そなたは祈りが足らんぞ。 祈りと申すのは心でゐ のり願ふことでないそ。 実行せねばならん。 地上人は物としての行動をしなければなら んぞ。 口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。 月光の巻 第44帖 (831)
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神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよ いのぢゃ。 人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今迄の考えぢゃ。 今迄の考え では人間の迷ひぞと申してあろうがな。 迷ひを払って真実に生きよ。 みたましづめぢゃ 。 加実しづめぢゃ。 そなたは信仰のありかたを知らんぞ。 長い目で永遠の立場からの幸 が、歓喜がおかげであるぞ。 局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ。 天地を信 じ、自分を知り、人を理解する所にこそ まことの弥栄あるぞ。 だますものにはだまさ れてやれよ。 一先づだまされて、だまされんように導いて下されよ。 そなたはそんな場 合に我を出すからしくじるのぞ。 だまされてやろうとするからカスが残るのぞ。 まこと にだまされる修業が大切ぢゃなあ。 月光の巻 第46帖 (833)
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八とはひらくことぞ。 ものごとはひらく時が大切ぢゃ。 第一歩の前に
心せよ。 そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。 行き詰りは有りがたいぞ。 省みる時を与えられたのぢゃ。 ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。 その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。 犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。 洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。 二月十八日。 月光の巻 第47帖 (834)
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日々の人間の御用を、神の御用と和すように、 神の御用が 人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜で あるぞ。 いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われに も他にも判らぬようになりて下されよ。 鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬を わすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。 そこらでなさ る行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。 気つけ合ってよきに 進んで下されよ。 そなたが歩むのぢゃ。 道は自分で歩まねばならんぞ。 他人におんぶし たり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。 そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助 けねばならんぞ。 人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。 この道理なぜに判らん のぢゃ。 人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。 神にも道は まげられんぞ。 月光の巻 第49帖 (836)
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自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよい のぢゃ。 内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。 内の自分 を洗濯せずにゐて、きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座る なれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。 木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ 。 三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。 為せば成る時が来てゐるのぢゃ。 為 さねば後悔ぞ。 時すぎて種まいても、くたびれもうけ。 そなたは世の中が悪いとか人が よくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応 大神が許しなされて 居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。 悪くうつるのは心のかがみがくもって ゐるからぞ。 悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申 すのと同じであるぞ。 新しき世界には新しき【てんし(天詞)てんか】をこしらえねば ならん。 このこと間違えるでないぞ。 珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。 び っくりしなければヒックリとはならんぞ。 神は今迄 化けに化けていたが、もう化けて は居られん。 人民ももう化けては居られんぞ。 九分九厘までは化けて、がまんしてゐた なれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。 教では世は正されん。 教のつ どいはつぶれて了うのぢゃ。 無理してはならん。 そなたの無理押しは よいことをわる く曲げるぞ。 月光の巻 第50帖 (837)
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うごぎは二つとな るなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。 キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて 和すのぢゃぞ。 和すから弥栄ぢゃ。 和せば一つぢゃぞ。 キミとなるのぢゃ。 そなたは自 分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。 境界をつくらずに、 おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。 世界一家のやり方 間違えて御座る ぞ。 それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、ミコト(実言)は一つと申して知らし てあろうがな。 大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。 不 足は不足をうむぞ。 そなたは口をつつしめよ。 そなたは一度 神をすてよ。 神にしがみ ついてゐるから、小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。 信ずれば信ずる程 危ないぞ。 大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯 をせよ。 神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。 月光の巻 第 51帖 (838)
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心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。 つまらん霊界にいつ迄くっつ いてゐるのぢゃ。 何ごとも清めて下されよ。 清めるとは和すことであるぞ。 同じもの同 士では和ではない。 違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。 奇数 と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。 それがまことの和であり清めであ るぞ。 善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。 和すには同じあり方で、例へば五と五との立 場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。 天が主で あり地が従でなければならん。 男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。 さか さまならんぞ。 これを公平と申すぞ。 口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。 心と行が伴はねばならん。 判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊 の世界に幽界の力が強いからぢゃ。 そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるから ぞ。 己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。 このいくさ中々ぢゃが、正しく和 して早う弥栄結構ぞ。 そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。 そのくせ治すことが御 神業ぞ。 自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、そなたのくせを治すこと が最も大切な御用でないか。 これに気がつかねば落第ぞ。 おそれてはならん。 おそれ生 むからぞ。 喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。 喜びは神ぢゃ。 神様御自身も刻々弥栄 して御座るぞ。 故にこそ生長なされるのぢゃ。 人間も同様でなくてはならん。 昨日の自 分であってはならん。 今の自分ぞ。 中今のわれに生きねばならん。 われにどんな力があ ったとて、我を出してはならんぞ。 我を出すと力なくなるぞ。 我を、大き我に昇華させ よ。 大我にとけ入らねばならん。 大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ 。 人おろがめよ。 物おろがめよ。 おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びと なるぞ。 うれしうれしとはそのことぞ。 月光の巻 第52帖 (839)
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そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には 出られん。 死んでも神の中にゐるのであるぞ。 思ふさまやりて見て、早う得心改心いた されよ。 回心して仕事嘉言と仕へまつれよ。 結構ぢゃなあ。 そなたは自分は悪くないが 周囲がよくないのだ、 自分は正しい信仰をしてゐるのだから、家族も知友も反対する理 由はない、 自分は正しいが他が正しくないのだから、正しくない方が正しい方へ従って 来るべきだと申しているが、 内にあるから外から近よるのだと申してあろうが。 そなた は無低坑主義が平和の基だと申して、 右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るな れど、 それは真の無抵坑ではないぞ。 よく聞きなされ、 打たれるようなものを そなた がもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。 まことに磨けたら、まことに相手 を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。 頬をうたれて下さ るなよ。 生れ赤児見よと知らしてあろうが。 月光の巻 第53帖 (840)
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頭も下げず低くならんでゐては流れては来ない ぞ。 神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。 そなたは頭が高いぞ。 天狗ぞ。 その鼻 まげて自分のにほひをかいで見るがよい。 そなたは左に傾いてゐるぞ。 左を見なければ ならんが、片よって歩いてはならんぞ。 そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御 座るぞ。 そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信 じてゐるが、それでは足らんのう。 立体の道を早うさとりなされよ。 【正中の大道】あ るのであるぞ。 左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。 左も右も上も下も相 対の結果の世界ぢゃ。 原因の世界に入らねばならん。 平面より見れば相対あるなれど、 立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。 相対では争ひぢ ゃ。 いくさぢゃ。 真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。 三千世界和平か ら出発せねばならんぞ。 そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。 神示 を肚に入れねばならん。 つけ焼刃ではならん。 神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ 通りスラリスラリと面白い程 栄えて来るぞ。 思ふように運ばなかったら省みよ。 己が 己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。 それが善であっても 、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。 善にも外道の善あるぞ。 心せよ。 神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。 この世始まってないことが出てくる のぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。 判りたか。 そなたは神体を偶像と申して御座るが 、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。 礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神を わすれることぢゃ。 そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ 。 拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。 そなたはわれが助かろうとするから 助からんのぢゃ。 世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。 我をす てて素直になされよ。 三千年の秋が来てゐるのであるぞ。 月光の巻 第54帖 (841)
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よく心得なされよ。 下 肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒り の現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。 怒 りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒 りあるぞ。 三月三日。 そなたはいつも自分の役に不足申すくせがあるぞ。 そのくせ直 して下されよ。 長くかかってもよいから、根の音(ね)からの改心結構ぞ。 手は手の役 、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。 上下貴賎ないこと、 そなたには判ってゐる 筈なのに、早う得心して下されよ。 そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。 縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。 今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。 真理に苦の花さくのであるぞ。 因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。 云 われんさきに判ってもらわねばならんぞ。 知らしてからでは味ないぞ。 十人並ぞ。 今度 の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ。 人間の目は一方しか見えん。 表なら表、右 なら右しか見えん。 表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。 自分の目で見 たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、 それは只一方的の真実であ るぞ。 独断は役に立たんぞと申してあろうが。 見極めた上にも見極めねばならんぞ。 霊 の目も一方しか見えんぞ。 霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。 一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ。 そなたは中々に立派な 理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、あわの如きもの、 そなたの財産にはならんぞ。 体験の財産は死んでからも役にたつ。 ざんげせよと申しても、人の前にざんげしては ならんぞ。 人の前で出来るざんげは割引したざんげ。 割引したざんげは神をだまし、己 をだますこととなるぞ。 悔ひ改めて下され。 深く省みて下され。 深く恥ぢおそれよ。 心 して慎しんで下されよ。 直ちによき神界との霊線がつながるぞ。 霊線つながれば、その 日その時からよくなってくるぞ。 気持が曲ったら霊線が切り替えられる。 月光の巻 第 55帖 (842)
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これと一応信じたらまかせきれよ。 梶をは なして鳴門の渦の中にまかせきれよ。 まかせきるとひらけてくるのぢゃ。 悟れたようで ゐて、そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。 そなたはいつも孤独、そなたの 不運は孤独からぢゃ。 友をつくりなさい、友つくることは己をつくることと申してあろ うが。 友つくることは新しき世界をつくることぞ。 一人の世界は知れたものぞ。 一人で はマコトの道を生きては行かれんぞ。 友と申しても人間ばかりではないぞ。 山も友、川 も友、動物も植物も皆友ぞ。 大地も大空も皆友となるぞ。 何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ 。 皆々己となれば己はなくなるぞ。 己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ 。 御神前で拝むばかりでは狭いぞ。 野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。 拝むことは和すこと。 和すことが友つくる秘訣ぞ。 友を己とすることは、己を友とする ことぢゃ。 友にささげることぢゃ。 親は子にささげるからこそ、子が親となるのぢゃ。 判りたか。 赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。 そなたが赤ん坊と同じ であったら出来ない芸当ぞ。 お尻を出すものがあっても、決して怒ってはならん。 子の お尻と思って きれいにふいてやれよと申してあろうが。 お尻を持ち込まれるのは、持 ち込まれるだけのわけがあるからぞ。 利子は後から支払えばよいと、そなたは思ってゐ るが、先に支払ふこともあるのであるぞ。 先にお尻をふかねばならんことも、世が迫っ てくると出てくるのぢゃ。 その代り、後では神がそなたのお尻をきれいにふいて下さる ぞ。 ぶつぶつ申さずに勇んでやって下されよ。 そなたは他にものを与えることに心せ ねばならんぞ。 与えることは頂くことになるのであるから、与えさしてもらう感謝の心 がなければならんぞ。 強く押すと強く、弱く押すと弱くはねかえってくること、よく知 って居ろうがな。 自分のものと云ふものは何一つないこと、よく判って居る筈ぢゃ。 月光の巻 第56帖 (843)
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いくらでもあるでないか。 何故に手を出さんのぢゃ。 そなたはすぐ金にならねば食 って行けない、金にならぬ仕事は出来ぬ、自分はよいが妻子が可哀さうだから、などと 申してゐるが、どんな仕事でも、その仕事にとけ込まねば、その仕事になり切らねばな らんのに、そなたは目の先の慾にとらわれ、慾になり切って、目の色を変えて御座るぞ 。 それでは仕事にならん。 仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。 自分自身 が仕事にならねばならん。 この道理さへ判れば、失業はないぞ。 自分が仕事ぢゃからの う。 月光の巻 第57帖 (844)
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花が咲く。 秋になれば葉が枯れるのぢゃ。 時節よく気付 けて取違ひせんよういたしくれよ。 時節程結構なものないが、又こわいものもないので あるぞ。 丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。 吸の極は呼となり、呼の極は 吸となるぞ。 これが神の用(ハタラキ)であるから、神の現われの一面であるから、神 も自由にならん。 この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無 視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢ ゃぞ。 素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。 時まてばいり豆にも花さくの であるぞ。 水が逆に流れるのであるぞ。 上下でんぐり返るのであるぞ。 上の人が青くな り、下の人が赤くなるのであるぞ。 取りちがひないように理解して下されよ。 月光の 巻 第58帖 (845)
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なれども囚われているぞ。 この神は ちと大きな、今迄にない大変をいたすのであるから、あまり小さく囚われていると判ら んことになってくるぞ。 固まるときには一度に固まらねばならん。 昨日は昨日、今日は 今日ぞ。 そなたは動機が善ならば失敗は薬と、 われの都合のよいように、われとわれを 弁解して御座るなれど、 弁解したのでは薬にならん。 毒となることあるぞ。 省みよ。 そ なたは何神様でも仏でも、何でも彼でも拝んでいるが、その順序と区別がよく判ってゐ ないぞ。 判らずにめくらめっぽうに拝んではならん。 心得なされよ。 そなたは忙しい忙 しい、神示よむ間もないと申してゐるが、忙しいのは神のめぐみであるぞ。 よどんだ水 はくさるのぢゃ。 忙しい中にこそ、神示よむ時があるのぢゃ。 逃げ道をつくってはなら ん。 月光の巻 第59帖 (846)
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自分の力が かくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。 何も彼も出して了ったのでは味がなくなる ぞ。 そなたはよく祈る。 祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せん ぞ。 為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈ってゐるぞ。 為すの は己であるから、己にゐのらねばならんぞ。 己に祈りた後、己が為さねばならんぞ。 乳 房与えられても自分で吸はねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。 だが、為したのみでは未 だ足らんぞ。 時々は省みなければならんぞ。 そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐ るが、心と行と口と三つそろはねばならん。 三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与 へられるのぢゃ。 拝む所へ ものは集まってくる。 神も集まってくる。 足らぬものなく なるぞ。 余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。 清富ぢゃ。 月光の巻 第60帖 (847)
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心くばりは忘れてならんなれど、取越し苦労、過ぎ越し 苦労はいらん。 そうした苦労は、そうした霊界をつくり出して、自分自身がいらぬ苦労 をするぞ。 何ごとも神にまかせよ。 そなたはまだ神業の取違ひして御座るぞ。 そなたの 現在与えられてゐる仕事が神業であるぞ。 その仕事をよりよく、より浄化するよう行じ ねばならんぞ。 つとめた上にもつとめねばならん。 それが御神業であるぞ。 そなたはそ なたの心と口と行が違ふから、違ふことが次から次へと折り重なるのぢゃ。 コト正して 行かねばならんぞ。 苦を楽として行かねばならん。 苦と心するから苦しくなるのぢゃ。 楽と心すれば楽と出てくるのぢゃ。 ちょっとの心の向け方、霊線のつなぎ方ぞ。 そなた は悪人は悪人ぢゃ、神として拝めとは無理ぢゃと申してゐるが、一枚の紙にも裏表ある ぞ。 そなたはいつも裏ばかり見てゐるから、そんなことになるのぢゃ。 相手を神として 拝めば神となるのぢゃ。 この世は皆神の一面の現われであるぞ。 月光の巻 第61帖 (84 2)
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現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方 と申すもの、 いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。 一に一たす一の世界、 一に一た す無限の世界、 超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねば ならんぞ。 そなたは心をもって居ろうがな。 心があれば心の属する世界のある道理は判 るであろうが。 心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判 るであろうがな。 心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。 心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。 何故に迷ふのぢゃ。 霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。 逆立してそなた自身で苦しんでゐる こと、早う得心して、うれしうれしで暮して下されよ。 三月三日。 月光の巻 第62帖 ( 849)
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先づ御 (おさ)め、次に治(おさ)め、次に知(おさ)めねばならんぞ、素盞鳴(スサナル) の大神は先づ滄海原を御め給ひ、更に蒼海之原を治め給ひ、次に天下(あめのした)を 知め給うたのであるぞ。 素盞鳴の大神が悪神とうつるのは悪がそなたの中にあるからで あるぞ。 碧玉の巻 第04帖(868) |
白黒交ぜると鉛となり 鉄となり銅となるぞ、 更に銀となり黄金となるぞ、 これがミロクの世のあり方ぞ、 五と 五では動きとれん。 そなたの足許に、来るべき世界は既に芽生へてゐるでないか。 星 座の巻 第09帖(892)
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大空を腹一杯吸ひ込んで下されよ。 そなたの神を一応すてて心の 洗濯を致してくれよ、 神示が腹に入ったらすてて下されと申してあろうがな、 神を信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。 日本が秘の本の国、
艮(宇詞答裸)(ウシトラ)のかための国、 国常立大神がウシトラの扉をあけて出づる国と言うことが判りて来んと、 今度の岩戸ひらきは判らんぞ、 こんなことを申せば、今のエライ人々は、 古くさい迷信ぢゃと鼻にもかけないなれど、 国常立命がウシトラからお出ましになることが岩戸(言答)ひらきぞ、 今の学では判らんことばかり。 善と悪とに、自分が勝手にわけて、 善をやろうと申すのが、今の世界のあり方。
天の王、地(智、千)の王のこと、 極めの巻 第04帖 (931)
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己(おのれ)自身のいくさが終ってゐないからであるぞ。 そなたのもつ悪 いくせを直して下されよ、それが御神業ぢゃ。 神々様も自分のくせを直すために御苦労 なさってゐるぞ、 そのために生長する。 昨日の自分であってはならんぞ。 六十の手習で とまってはならん、 死ぬまで、死んでも手習ぢゃ。 お互におろがめよ、 おがむと総てが 自分となる、 おがむところへ集まって来て弥栄ぢゃ。 極めの巻 第12帖 (939)
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怒ってはならん、 お尻を出されるには 、出されるだけの何かの原因が己の中にあるのであるぞ。 利子は後からでよいと申すが 先に払ふこともあるぞ、 先にお尻をふいてやらねばならんこともあるぞ。 世が迫って岩 戸があいたのであるから、先にお尻をふく事も出てくるぞ、 思わぬお尻もち込まれるこ ともあるなれど、怒ってはならん、 気持よくふいてやれよ、 やがては神がそなたのお尻 をふいて下さるぞよ。 五葉の巻 第04帖 (118)
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取り越し苦労、過ぎ越し苦労はやめて下され、地球と言ふ大船に乗って一連託生ぢゃ、 現在の仕事が御神業と心得よ、 不満をもってはならん、そなたが招いた仕事でないか。 この道理判らねば迷信の迷路に入るぞ。 五葉の巻 第08帖 (122)
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