「勾玉三部作」あれこれ(その1)
延喜式祝詞(巻八)
この式(法典)は、最初に凡条を二条掲げている他は、すべて祝詞そのものを集成した物です。
それらは、祈年(としごい)祭・春日祭・広瀬の大忌祭・龍田の風の神祭・平野祭・久度古関・六月十二日月次つきなみ)祭・大殿祭・御門祭(みかどほがい)・六月十二日晦大祓(つごもりおおはらえ)・鎮火(ほしづめ)祭・道饗(みちのあえ)祭・大嘗(おおにえ)祭・鎮御魂斎戸祭(みたまをいわいどにしずむるまつり)・伊勢豊受両神宮諸祭・遷却祟神祭(たたりがみをうつしやるまつり)・遣唐使時奉幣・出雲国造神賀詞(いずものくにみやつこのかむよごと)などです。
この中で、特に「空色勾玉」のベースとなったと思われる「大祓詞(おおはらえのことば)」についてまとめてみました。
他にも、「鎮御魂斎戸祭」も知りたいところなのですが、今のところ良い資料が見つからず、それについてはいずれまた、付け加えたいと思っています。
大祓とは
大祓の起源は古く、大解除と称し災害疫病があるたび行われていました。
現在のように6月、12月に行われるようになったのは、大宝元年(701)からです。
平安時代には、御所の朱雀門に皇族らが集まり、大祓詞(おおはらえのことば)を唱え、国民の罪穢を祓う行事が行われていました。
中世の戦乱時に衰退していましたが、明治4年再興され、現在に至っています。
また、この大祓詞の原文は927年完成した「延喜式」に集録されていますが、できたのは661年頃と言われています。この詞は宮中の
祭祀を司る家柄の中臣氏が勅命を受けて、大祓の儀式の時に宣読したので「中臣祭文(なかとみのさいもん)」とも言われています。
大祓詞(おおはらえのことば)
六月晦大祓(みなつきつごもりのおおはらえ)〔十二月(しはす)は之(これ)に准(なら)へ〕
集侍(うごな)はれる親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まへつぎみたち)・百官人等(もものつかさのひとたち)、諸聞食(もろもろきこしめ)せと宣(の)る。天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へ奉る比礼掛(ひれか)くる伴男(とものお)・手(た)すきかくる伴男・ゆぎ負ふ伴男・剣(たち)はく伴男・伴男の八十(やそ)伴男を始めて、官官(つかさつかさ)に仕へ奉る人等(ひとども)の、過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪を、今年の六月(みなづき)の晦の大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞食(もろもろきこしめ)せと宣(の)る。
高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す皇親神漏岐(すめむつかむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(もち)て、八百万神等(やほよろづのかみたち)を神集(かむつど)へに集(つど)へ賜ひ、神議(かむはか)りに議り賜ひて、我(あ)が皇御孫之命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)の水穂(みづほ)の国を、安国(やすくに)と平(たひら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよ)さし奉(まつり)き。如此依(かくよ)さし奉りし国中(くぬち)に、荒振神等(あらぶるかみとも)おば、神問(かむと)はしに問はし賜ひ、神掃(かむはら)ひに掃ひ賜ひて、語問(ことと)ひし磐根(いはね)・樹立(きねたち)・草の垣葉(かきは)をも語止(ことや)めて、天之磐座(あめのいはくら)放ち、天之八重雲(あめのやへぐも)を伊頭(いづ)の千別(ちわき)に千別て、天降(あまくだ)し依(よ)さし奉りき。
如此依(かくよ)さし奉りし四方(よも)の国中(くになか)と、大倭日高見之国(おほやまとひたかみのくに)を安国(やすくに)と定め奉りて、下津磐根(したついはね)に宮柱太敷(みやばしらふとし)き立て、高天原に千木高知(ちぎたかし)りて、皇御孫之命(すめみまのみこと)の美頭(みづ)の御舎(みあらか)仕へ奉りて、天之御蔭(あめのみかげ)・日之御蔭(ひのみかげ)と隠(かく)り坐(ま)して、安国(やすくに)と平(たひら)けく知食(しろしめ)さむ国中(くぬち)に、成り出(い)でむ天之益人等(あめのますひとら)が、過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪事(つみごと)は、天津罪(あまつつみ)と、畔放(あぜはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)・串刺(くしさし)・生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそへ)、許許太久(ここだく)の罪を天津罪(あまつつみ)と法(の)り別けて、国津罪(くにつつみ)、生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)・白人(しろひと)・胡久美(こくみ)・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜犯せる罪・昆虫(はふむし)の災(わざわひ)・高津神(たかつかみ)の災(わざわひ)・高津鳥(たかつとり)の災(わざわひ)・畜(けもの)たふし、まじ物為(せ)る罪、許許太久(ここだく)の罪出(つみい)でむ。
如此出(かくい)でば、天津宮事(あまつみやごと)以(もち)て、大中臣(おほなかとみ)、天津金木(あまつかなぎ)を本打切(もとうちき)り末打断(すえうちた)ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らはして、天津菅曾(あまつすがそ)を本刈(もとか)り断ち末刈(すえか)り切りて、八針(やはり)に取りさきて、天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。如此(かく)宣(の)らば、天津神は天磐門(あめのいはと)を押し披(ひら)きて、天之八重雲(あめのやへぐも)を伊頭(いづ)の千別(ちわき)に千別て聞食(きこしめ)さむ。国津神は高山(たかやま)の末(すえ)、短山(ひきやま)の末に上り坐(ま)して、高山の伊穂理(いほり)、短山の伊穂理(いほり)を撥(か)き別(わ)けて聞食(きこしめ)さむ。
如此聞食(かくきこしめ)してば、皇御孫之命(すめみまのみこと)の朝廷(みかど)を始めて、天下四方国(あめのしたよものくに)には、罪と云ふ罪は在らじと、科戸之風(しなどのかぜ)の天之八重雲(あめのやへぐも)を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みぎり)・夕(ゆふべ)の御霧(みぎり)を、朝風夕風の吹き掃う事の如く、大津辺(おほつべ)に居(を)る大船を、舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を、焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以(もち)て打掃(うちはら)ふ事の如く、遺(のこ)る罪は在らじと、祓へ給ひ、清め給ふ事を、高山の末、短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落ちたぎつ速川(はやかは)の瀬に坐(ま)す瀬織津比売(せおりつひめ)と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。
如此(かく)持ち出で往なば、荒塩(あらしほ)の塩の八百道(やおぢ)の八塩道(やしほぢ)の塩の八百会(やほあひ)に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と云ふ神、持ち可可呑(かかの)みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と云ふ神、根国底之国(ねのくにそこのくに)に気吹(いぶ)き放ちてむ。如此気吹(かくいぶ)き放ちてば、根国底之国(ねのくにそこのくに)に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ)と云ふ神、持ち速佐須良比(さすらひ)失ひてむ。
如此(かく)失ひてば、天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕え奉る官官(つかさづかさ)の人等(ひとども)を始めて、天下四方(ああめのしたよも)には、今日より始めて罪と云ふ罪は在らじと、高天原(たかまのはら)に耳振(みみふ)り立てて聞く物と、馬牽き立てて、今年の六月(みなづき)の晦日(つごもりのひ)の夕日の降(くだち)の大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞食(もろもろきこしめ)せと宣(の)る。四国(よくに)の卜部等(うらべども)、大川道(おおかはぢ)に持ち退(まか)り出(い)でて、祓へ却(や)れと宣(の)る。
大祓詞解説
高天原にお鎮まりになる、皇親神漏岐(すめむつかむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)のお言葉によって、八百万の神々をお集めになり、十分に論議をつくされた結果、「わが皇御孫之命(すめみまのみこと)は、豊葦原の水穂の国を、安隠な国として、平和に統治なさい」と、仰せになられました。このように、ご依頼された国の中にいる、荒れ狂う神たちに対して、帰順するか否かを、幾度となくお問いになり、なお応ぜぬ時には、徹底的に追い掃われて、不平を鳴らして順わなかった、岩石・木の株・一片の草のはてまでも、鳴りを静めさせた上で、皇御孫之命は高天原の神座を離れられ、幾重にも重なっている雲を、激しい勢いで、かき分け押し分けて、水穂の国にお降しになり、統治の任におつきになりました。
このように、皇祖の神々から、この国を統治するようにとご依頼になられた国の、中心としての、大和の国を心安らかな国とお定めになられて、地下の堅固な磐に達するほど深く、宮殿の柱を太々しく立て、又雲に聳ゆるほど、屋根の千木を高く立てて、皇御之孫命の立派な御殿をお造り申し上げ、ご奉仕いたします。その御殿で、皇御之孫命は皇祖の神々のおかげをいただいて、住み給うて、平安に治めあそばします。その国土に、生れ育ち、栄えて行くべき国民が、過ち犯したりしたところの様々な罪事は、大別して天つ罪や国つ罪になります。
このように、たくさんの天つ罪・国つ罪が出るならば、高天原の天つ神の儀式にならって、大中臣は、立派な細木の本末を切りそろえてその中ほどを取り、多くの机に積み上げ、また、立派な菅麻の本末を切りそろえてその中ほどを取って、針で幾條にも細かにさき分けて、天つ神の授け給うた祓の祝詞を唱えなさい。このように唱えるならば、天つ神は高天原の磐門を押しひらいて、天の八重雲を激しい勢で、押し分けてお聞きなされるでしょう。国つ神は、高い山や低い山の頂上にお昇りになって、高山や短山からもやもやと立ち上る濛気をかき分けて、太祝詞をお聞き下されるでしょう。
このように、天つ神国つ神が、お聞き届け下さいましたならば、
罪という罪の限りは、一切残らず消え失せるでしょう。
それはあたかも、科戸の風が天の八重雲を吹き放つ事のように、朝夕に立ちこめる霧を、朝夕の風が吹き払う如く、大きな港につながれている大船を、つなぎ留めてある舳艫の綱を解き放って、大海に押しやる如くに、遠方の繁った木の根本を焼きの入った、鋭くよく切れる鎌で切り掃ってしまうように、漏れ残る罪は一つもないようにと、天つ神国つ神の祓へ給い清め給う事を、高山・低山の頂上から、渓流となって激しくたぎり落ちる急流の瀬にいらっしゃる瀬織津比売(せおりつひめ)という神が、その霊力で大海原に持ち出るでしょう。
このように、大海原に持ち出されるならば、多くの潮流が合して渦巻くあたりにおられる、速開都比売(はやあきつひめ)という神が、その罪をがぶがぶと呑みこんでしまれるでしょう。このように、がぶがぶと水を呑むように、罪けがれを呑み込まれるならば、次には息吹の根源にいらっしゃる気吹戸主(いぶきどぬし)という神が、根の国底の国に吹き放ってしまうでしょう。このように、吹き放ってしまうならば、遂には根の国底の国にいらっしゃいます、速佐須良比売(はやさすらいひめ)と言う神が、これを受けとって行方も知れず運び去って下さるでしょう。
このように、あらゆる罪穢を完全に無くしてしまったならば、天下四方には、今日以後一切の罪穢が無くなるであろうと、今日の六月の晦の夕日の傾きかける時刻に行われるこの大祓に、天皇が祓え清め給う事を、皆さんよくお聞き下さい。四国の卜部たちは、祓えつ物(罪を負わせて祓い捨てる物)を大川に持っていって流しなさい。
以上、大祓えの始まりを宣言する最初の部分と、天津罪、国津罪を細かく説明している部分を除いた現代語訳(ちょっと怪しい)です。
ここまで読んで、「空色勾玉」に出てくる闇の氏族の大王たちの名が見られることに気づかれたでしょうか。
「科戸(しなと)」「開都(あきつ)」「気吹戸(いぶきど)」
そして、主人公狭也を彷彿とさせる女神が「瀬織津比売(せおりつひめ)」ですね。
また、「白鳥異伝」に出てくる岩姫様の母親は、「速来津姫(はやきつひめ)」という名でしたが、これも、ここから取ったもの
かもしれません。
なお、これらの神についてさらに詳しく知りたい方は、こちらへおいでください。
以上「延喜式」・・吉川弘文館、「祝詞入門」・・・日本文芸社、などを参考にさせていただきました。
さて、ここでもう一つの説をあげたいと思います。狭也のモデルは速佐須良比売ではないか、とするあまねさまの説です。
以下は、掲示板に書いていただいたものをそのまま載せさせていただいたものです。
狭也=瀬織津比売?となっていましたが、ぼくにはむしろ速佐須良比売が狭也なのではないかと思えます。それに狭也(さや)も狭由良(さゆら)も音的に明らかに佐須良(さすら)を踏まえているようですし。
ちなみにこの速佐須良比売、本来は葛城系の女神だったのですが、大祓詞にも登場するなど、神道が整備されるのに伴ってその重要性が増した結果、伊勢神宮の神道五部書では、ついに伊邪那岐の三貴子の一人として、黄泉から帰った伊邪那岐が鼻を洗った時に誕生したことにされてしまいました。
つまり、記紀において伊邪那岐が鼻を洗った時に誕生した須佐之男=荒魂(アラミタマ)を補完し、和魂(ニギミタマ)と魂鎮めを象徴する(なにしろ、自らは穢れなき身でありながら、地上の全ての罪と穢れをその身に負って何も言わずに消え去るのですから)、赦しと受容の女神とされた訳です。
『空色勾玉』における狭也と稚羽矢のカップリングは、このあたりから生まれたのではないかと個人的には思っています。
さらに付け足しとして、次のような葛城系神話の速佐須良比売のお話もいただきました。
確か本来の葛城系神話では、速佐須良比売は一言主の娘だったはずです。ですが娘神があまりにも美しい女神であったので、一言主は実の娘と姦通の罪を犯してしまったのでした。それに対して高天原の天つ神々は、処罰の為に隻眼の「醜(しこめ)き神」を送ります。一言主とこの鬼神は激しい戦いを繰りひろげますが、とうとう一言主は真二つに切り裂かれて、地に投げ落とされてしまいます。そのとき速佐須良比売が進み出て言うことには「父の罪はまた私の罪でもあります。私が父の分の罪をも背負って根国底之国に降りますので、どうか父の罪を赦してください……」天つ神々はこれを受け入れ、この時から速佐須良比売は根国底之国に坐し、他者の罪をもその身に負って、自ら罪とともに消え去る女神となったのだそうです。
さらに、もうひとつ。私の古代神話ブレーン(勝手に決めてしまう)のお一人風葉さまからの情報です。
速佐須良比売とは
「延喜式」に見られる祓戸四柱の一神です。気吹戸主神によって吹き放たれた罪穢れは、根の国底の国にいたって勢いよく流浪する女神によって失われる、とされており、元来は佐須良比比売(さすらひ・ひめ)であったのが同音が重なって佐須良比売になったものです。
根の国底の国とは、古事記における根の堅州国と考えることができ、結局、罪穢れは黄泉の国に帰っていくと考えられるようです。
吉田神道では、この黄泉の国の神を須佐之男命と考えていて、
「この神は悪神で、天にも下界にも住むことができずに根の国底の国に追いやられてしまった。この神は、男神とも女神ともいわれている」
と説明しています。
また、本居宣長は、この神を須佐之男命の娘の須勢理毘売と同じ神と見ています。その理由としては、大国主神が八十神も禍事により根国におもむき、須勢理毘売のはからいによって顕国へ帰り、大事な仕事をすることが出来た、ということをあげています。これは、佐須良比売の神徳によって人々が罪穢れを祓い、福を得るのとおもむきが同じである、ということのようです。
世の中の凶事はすべて黄泉の国にはじまり、結局また黄泉の国に帰るのが祓いの本義であるということです。
というわけで、速佐須良比売=須佐之男命、須勢理毘売という説であります。
須佐之男は稚羽矢のモデルであるからして、へたをすると狭也=稚羽矢なんてことにもなりかねませんが、そこまで行かないにしても狭也のモデル=佐須良比売というセンは濃そうですね。