「信じる」の考察
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最近、何やら日本語・情報に関して、 超レベルの低い方が書き込みをしているようです。 私の本名を使って書き込みもしているようですので、そのような場合は、最低限のマナ−・ 行儀として自身の本名で 書き込みをされるのが普通です。 それはさておき「信じる」と云う 言葉の意味も使い道も 出来ていないようですので、 少し追加説明をしてみましよう。 もっとも、この件については、しばしば その説明を公開していますので、 真面目にHPを読めば 良く分かるのです。 もちろん、それらの説明を理解して 納得された方たちが、 今も仲間となつている分けですから、 それらの皆さんにとっては言わずもがなです。
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この方は、哲学者のデカルトのことに ついても見解のようなものを 書いていますので、その点について 説明します。 かって、哲学者デカルトは 「この世で正しいこと・ 信じられることは?」 「何が真実?」 と考察をしていました。 神も何もかもです。 その結果、全ては信じられないと云う 結論にいたりました。 ただ、それでも疑えない真実・ 事実に突き当たりました。 それが有名な 「我思う故に我有り」 と言う言葉です。 この言葉の意味は、 この世の何もかも信じられないが 、唯一信じられる物がある。 それは 「何が正しい・信じられないと考察し 疑っている、私自身の存在である」 と結論したのです。 それを纏めて 「我思う故に我有り」 と云う言葉となって纏められたのです。 それほど 「信じる」 と言う言葉を 追求するのは、困難を極めるもので、 本来は、一般の人間が簡単に 「信じるとか、 信じない」 とか安易に云うべき 言葉でないのです。 蛇足ですが、私が10代の頃、 大学の教授が哲学の講釈していたので {「我思う故に我有り」と云う結論に 至る論理的・哲学的な構造は何か?} と質問したことがありますが、 回答してもらえませんでした。 理由は簡単で、この有名大学の 哲学の教授は 「哲学を商売にして生活をしていたが、 本人が哲学者でなかった」 というわけです。 従って、哲学情報の切り売りを していましたが、哲学をして 深く探求していなかったということです。 本来、これらの教授達が、 深く哲学をしていれば、 それから先の哲学を創造も 追求もできていくのです。
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先に、起きた九州の地震で東大の 地震研究所の人間が思わず 「うそ〜」 と叫んだそうです。 「この付近では1900年代まで さかのぼっても、大きな地震が 起こっていません。 私も玄界灘でM7.0と聞いたときは思わず “うそ!" と声を上げてしまいました.」 もし、この方が東大卒の学者は、 信じられる。 「従って、 1900年前から100年間 観測で十分である」 なんて 考えているのであれば、 話しにならないことになる。 何故なら、彼らが信奉している 大陸移動説・フレ−トテクトニクスでは、 四億年の歳月をかけてパンゲア大陸が 移動して現在の世界の大陸の 配列になつたのであって、 その間静止していたわけではない。 その間、インド大陸はユウラシア 大陸に衝突して、天山山脈ら アルプス山脈をつくつたのであるから、 巨大な断層や歪みは、大陸に限らず 海底にも大陸棚など至る所に 出来てしまうのが 当然であるということです。 従って、それらの断層が動くのは、 100年、1000年、10000年、 100000年などなどの 単位であることも当然と 考えねばならない。 ただ、 「彼らの観測装置を設置してから 100年間は無かった」 というだけで、 「その存在の記録が無いために それを特定できない」 というだけであることを忘れて、 勝手に思いこみ信じ込んだ故に 「うそ〜」 と云う発言になっただけなのである。 事実、100年間の彼らの観測に かからなかったのに、 目の前で地震は発生したということです。
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其れ以上に問題なのは 「信じる」 と云う言葉の本質は、自己を放棄して 精神的なロボットになってしまうことである。 例えば、キリスト教徒との聖書の 善し悪しの論争をしていても、 「キリスト教徒」 は、聖書に書かれていることは全て 正しいと云うよりは、全てを 信じることから始まるので、 聖書の善し悪しの論争をしていても 論争が成立しないことになる。 この理由は 「神を信じる」「聖書を信じる」 と云う自己の放棄から、信仰は始まるからである。 簡単に云えば 「なになにを信じる」 と云う言葉は 「自己を放棄して、それの中に どっぷりと浸り、何も考えない精神的に 楽な状態に至る」 「精神的ななまけものの精神的論理」 以外の何ものでもないのである。 従って、掲示板などで直ぐに 「信じる、信じない」 などと簡単に云うのは、 極めて程度が低く、 容易にマイドコントロ−ルされやすい 精神的にロボットに 成りやすい方と云うことになる。
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従って、我らの仲間と呼ぶべき人々は、 この本質を理解出来た、 自由な精神性と高いレベルの 精神性をもった人々ということに なるのです。 ヒトラ−が2039年と云おうが、 ホピが2012年と云おうが、 ノストラダムスが1999年と云おうが、 どうでもよいのです。 指定の時期が正しいか? その可能性があるか? は、記載された内容を自己責任で 研究して理解すれば良いことで、 問題としては二次的なもので あるということです。 必要なのは、その年代に至るシナリオで、 そこに記載されていることが 起こる可能性の追求であり、 それの理解程度によつて、 その対策を自己責任で理解して 行動することであるということです。 そこには、最初から 「信じる信じない」 などの安易な道を 選択していないということです。 その理解の判断のレベルで、もし、 それが事実になれば生き残るし、 そうでなければ 生き残らないというだけであるのです。 必要なのは、その理解と可能性を 検討する為の日々の情報・ 本質的と思われる 情報の交換であるということになるのです。 そして、それらの中から。より 有意義な情報を得ながら、 自身の精神性の成長と 予言をテ−マにした、 人類の未来について真剣に理解を深め、 「必要な時期に必要な行動を 出来るようにしておく」 ということで あるのです。 もっとも、このような姿勢で 日々を過ごしていれば、 自ずから、その時については、理解が 深まることも事実であることも 否定できません。
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毎どう、毎どう、日替わりで 「信じる・・・」 なんて低級な水準の考察で、 かなり食傷気味でありますが、 何かの参考になればと考えます。
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