大本教と雛型(かた)
|
|---|
大本教は、雛型(かた)示しをしたと言われています。 つまり 「世界の運命を教団の運命として表現させた」 ということらしいのです。 ですから 「大本教の盛衰の流れを追っていくと、今後の世界の運命がわかる」 という見方をする方もおられます。 このサイトを読まれている方の中で、どなたか、大本教の雛型(かた)に詳しいかたがおられたら教えていただけるとありがたいです。 以下は、わたしがピックアップした雛型(かた)の要点です。 王仁三郎が言う雛型(かた)とは、本当に 「正神」 からのものか、それとも 「正神を名乗る邪神」 からのものか? これは、残念ながら、来るべき大立替のその時に なってみないと判らないのかもしれません。 一つだけ気になるのは、出口王仁三郎が 「数々の奇跡を行った」 ということです。
|
「“模写(かた)”」 とある場合は、 「神霊世界に起こっている立替え・ 立て直しの霊的現象が、大本の内部に現界事象として 起こっている」 ことを指し、 「“雛型(かた)”」 とある場合は、 「今後地上世界に実現してくる立替え・立て直しの事象を、 前もって大本の内部で実演する」 という意味を指す。 ここで取り上げている“型”とは後者の 「“雛型(かた)”」 のことを言う。 つまり大本に起こったことというのは、 「必ず世界にそのまま移写」 する。 厳密に言えば、 「大本で起こった雛型(かた)がまず 日本にうつり」 「日本に起きたことが、そのまま世界にうつる」 という3段階を経て、世界の立替・立て直しが 完了するのである。 『大本神諭』 には、 「世界にある事変は、皆明治32年から大本の内部に 模写(かた)がして見せてあるぞよ」
「いつ大本にこうゆう事がありたという事を、つけとめておいて下されよ」 「世界の“かがみ”になる大本であるから、世界にあること雛型(かた)をしてみせるぞよ」
「大本は世界の模型(かた)であるから、箸(はし)のころんだ事までつけとめておいて下されよ」
出口王仁三郎もまた、 「大本に在りた事は皆世界にある」 「即ち大本は雛型(かた)をするところである」 と述べている。 この雛型(かた)経綸が、地上現界において、ある一定期間、因縁の身魂によって「実演」された。 その霊的集団を、大本と呼ぶのである。 そして その「一定期間」とはいつからいつまでを指すのかというと、 その期間は、 「明治25年正月から昭和19年元旦」 に至るまでの 「満50年間」 である。 この50年間を 「地の準備神行」 という。 ここで注意しなければならないのは、 「地の準備神行50年」 で起こったことが、 「日本にうつり、世界にうつる」 ということであって、現在の大本教に起こったことではない。 「大本」 とあるのは、いわゆる 「雛型(ひながた)神劇を行った大本」 を指し、 「現在の大本教」 とは、厳密に区別すべきことである。 明治33年旧4月7日の『大本神諭』には、次のように 示されている。
さらに出口王仁三郎は、この神諭にある 「三千年と五十年」 という部分に関して、晩年になって次のような解説を発表した。
すなわち、悪神の合議により、日本列島に隠退せしめられていた 「艮の金神(国常立大神・くにとこたちのおおかみ)」 は、三千年(非常に長い期間の意)の間、かげから全世界を守護してきたが、あくまでかげからの守護であったため、悪神、悪霊ははびこっる世の中となり果て、今や滅亡寸前の段階まで来てしまった。 そこで、 「艮の金神が再び表に現れて」 暴虐(ぼうぎゃく)満ち満つ世を 「立替え・立て直し、 みろく神政の主宰神」 として復権することとなった。 そこで地上界を立替え、立て直す 「経綸の雛型(ひながた)」 として降ろされたのが、大本であった。 もちろん、この雛型神劇を演じさせらていることを知っていた 者は、王仁三郎を除き、ほとんどいなかったであろう。 王仁三郎は、昭和18年元旦、 雛型経綸を地上で完遂する使命をやりとげた。 この50年の 「地の準備神業」 で起こった出来事が、 「日本に拡大し、世界に移写されて」 いくのである。
![]() 日本で起きたことは 世界で必ず起こる! さて、それでは具体的にどのような方法で 「みろくの世」 が現れるのだろうか。 「型の経綸」 には一定の法則があるが、そのうちの一つが 「世の立替えは各段階とも二度ある経綸である」 というものだ。 『日月神示』にも 「同じこと二度ある仕組み」 などと記されている。 大本50年の雛型経綸において、 「立替えは、二度」 起きている。 大正10年にあった 「第一次大本事件」 と昭和10年にあった 「第二次事件」 がそれである。 二度にわたるこの立替えは、そのまま 「日本の立替え」 となってうつってくる。 日本の一度目の立替えは、 「昭和16年から昭和20年まで、 第二次世界大戦」 という形で起こされた。 そして今や日本は、 「二度目の大立替え」 を迎えようとしている。 現在はまだその気も感じられないかもしれないが、そう遠くない時期に、必ずもう一度立替えは起こる。 そして次の段階で起こるのが、世界の立替えである。 全世界におよぶこの立替え、つまり最後の大立替えが、 いわゆる 「世の大峠(おおとうげ)」 で、 「人類の三分の二以上が死滅し」 「極移動(ポールシフト)」 も起こる、激烈極まる大変革となり、これを 経て、世界はあますところなく、神の威光が輝く 「みろく神政」 の世へと転換するのである。 「型の経綸」 のもう一つの法則は 「立替えの力は外から来る」 というものだ。 2回の大本弾圧事件を見ても、立替えは国家権力という外からの力によって行われている。 そして 「一度目より二度目のほうがはるかに激しく」 徹底的である。 日本の一度目の立替えも、アメリカ軍による外からの 力により強行されている。 それがパールハーバー・アタック(真珠湾奇襲攻撃)にはじまる 「日米戦争」 の突入だった。
大本における二度目の立替えの程度からすると、 これから日本に起こるであろう立替えは、間違いなく 徹底的で、一度目をはるかにしのぐものとなる。 現に『日月神示』にはそのことが明確に示されている。 とにかくこうしてみると、大本に起こった二回の弾圧事件というのは、単に国家による一宗教団体への弾圧という解釈で済まされるような低い次元のものではない。 それは雛型経綸上、どうしても外からの力により大本を潰させる必要があったという、立替えのプログラムに基づいて実行されたのである。 王仁三郎は、あざやかに日本の支配者層を手玉にとり 国家権力まで雛型神劇の舞台に引きずりだし、世界大改革の「型」を遂行してみせた。 王仁三郎の行動や言動を「型」という 観点から追ってみると、不可解な部分が雲が晴れるようにハッキリとわかってくる。 大正10年の第一次大本事件の2年前、王仁三郎が 直受した『伊都能売神諭』 「世界の大峠が来る前に大本の大峠がある」 と、弾圧の予告が明確に示されている。 第一次弾圧は、前述したように、浅野和三郎を中心とする「大正10年立替」論者たちにより、すさまじい ばかりの布教宣伝活動が展開され、それが日本の支配 階級に脅威を与えるほどに拡大したために起こった。 「大正10年立替」 説を唱えた浅野に対して、医学博士で大本信者の岸 一太は、大正26年ごろが立替の時期であると主張、両者は激しく論争したが、王仁三郎は、そのどちらにも 「賛成できない」 と表明している。 すなわち『神霊界』誌111号の誌上で、王仁三郎は、 「わたしの見るところでは、どちらへも団扇(うちわ)を上げることができぬと思う」 と書いているし、さらにもし浅野の主張する大正10年立替説が破れたとしても 「浅野総裁その人に対しては、わたしは別に不足も不満も持たぬ」 と言明し、暗に浅野を養護している。 王仁三郎としては、大正10年の大本の立替はどうしても演出しなければならなかった。 予言的中率100%の実力をもってすれば、そんなに早い時期に世の大峠など起こらないことは承知していたはずだが、世の大峠の雛型として、その時点で国家により大本を弾圧してもらう必要があったとしてみれば、王仁三郎のこの言動もうなずける。 かくして予定通り、第一次大本弾圧は起こり、外からの立替は行われた。 ところが、その後の大本の復興と世界的躍進は目を見張るものがあった。 まさか、あの弾圧で手痛い打撃を受けた大本教線が 広がるようになるとは、いったい誰が想像しえたであろう。 さてもうお気づきの読者もいることと思うが、大本のこの第一次立替の経緯は、日本国のそれと酷似している。 第二次大戦で、日本はアメリカの参戦により 敗戦国となり、その結果として大日本帝国の立替えが 行われた。 その後の日本の復興は実にめざましく、奇跡的と思えるほど迅速であった。 加えて、日本人ビジネスマンによる世界各国への進出は国際国家日本の基盤作りに大いに貢献した。 今や、GNP世界第二位の経済大国となった日本であるが、この姿はまさに、世界中に勢力を拡大し、国際宗教団となった大本と相似形をなしている。 昭和9年に入ると、王仁三郎は日本の各界要人との 接触を始め、その構想及び行動は、次第に政治色の 濃さを増してくる。 大本が、単なる政治団体として活動していくつもりであるなら、当時の日本の政情からして、絶対にしてはならない逸脱行為であった。 王仁三郎はそれを百も承知で、あえて実行した。 驚いた大本の総務会は、総務・大国以都雄を代表として東京に派遣、王仁三郎に計画の中止を促した。 ところが王仁三郎の意志は固くこの要請を突っぱねている。 そして昭和9年7月22日、昭和神聖会が盛大な創立発会式を上げると、王仁三郎の政治的発動はますます 先鋭化していった。 王仁三郎の妻であり、大本二代教主の出口澄(すみ)は神聖会運動には、最初乗り気でなかったが、王仁三郎が 「神様がやれと言われるからやるのだ」 と説得したため、反対はしなかった。 また三代出口直日(なおひ)は、神聖会の運動には 終始反対であったという。 昭和10年も4月を過ぎるころになると、神聖会の 運動はますますその激烈さを増し、国家権力の中枢を脅かすようになっていく。 特高警察の監視もいよいよ厳重なものとなり、弾圧が近いのではないかという、きな臭い雰囲気が漂い始めた。 しかし王仁三郎は 「弾圧を怖れて運動を中止したり、手控えることは 断じてできない」 と逆に、運動を徹底的に進めるような指示を下している。 王仁三郎が運動を続けさせたのは、 「国家に今一度 大本を叩きつぶしてもらう」 という、雛型経綸上の 重大な使命があったからである。 こうして 「昭和10年12月8日」 第二次大本弾圧は 起こされた。 この時の弾圧は、前出したように、宗教史上他に例を見ないような、狂気に満ちた徹底的なものであった。 これがそのまま二度目の日本の立替に移写するとなると、日本にどのような惨状が現出するのであろうか。 世界の立替え・立て直しの雛型を地上に顕現した大本は、明治25年から昭和18年までの50年間をもって 「地の準備経綸」 としての役割を完了した。 そして翌昭和19年、岡本天明の肉体を機関として 「立て直し神諭」 とも言われる 『日月神示』 が降ろされるのである。 この神示は本来、大本で出されるはずであった( 大正7年旧10月29日神諭)が、当時の厳しい言論統制の下では様々な制限があり、またいずれ弾圧される大本では本質的な部分を伝達することが難しかったので、仕組みが変わり(大正12年旧10月12日神諭)、全く別の所で出されたのである。 まとめると、大本の弾圧は二度起きたのである。 「大正10年」 と、 「昭和10年」 の二回である。 大正10年の 「第一次弾圧」の時は、 「神殿の破壊や神体などの押収」 「王仁三郎と幹部の浅野和三郎の逮捕」 「幹部の家宅捜索」 といったものであったが、「大本」の息の根が止まるところまではいかなかった。 それどころかこの事件により王仁三郎に対抗するような旧幹部たちが一掃され、大本は以前にも増して勢力を増すようになった。 これはそのまま、日本の敗戦と、その後の経済復興という形で移写している。
|
![]()
|
![]() |
![]() |
|
|||
|
|