七で検索NO6
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山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。 しかし、それは最初からのものではない。
それらの元をなす
その 地上的約束の下に生長し、 秩序されたがため、 その結果が、死後の世界につづき、
死後の世界の様相は 生前世界に移行して、生前的に進展し、
弥栄し、その
漸次、内的
外的、地上的に進む
その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。 而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。 また、生命の大歓喜として湧き出ている。 故に、地獄にあらざる地獄的霊界、 天国にあらざる天国的霊界は、 霊人により生み、 霊人により育てられると同時に、 人々により生み、 人々により育てられ、 歓喜されるのである。 かく弥栄進展するが故に、 人類も霊人類も、 各々その最後の審判的段階に入る迄は、 真の三千世界の実相を十分に知り得ない。 故に、新天新地の来る迄、 真の天国を体得し得ない。 新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。 この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、
何れも 同一のものではない。 より小なるものより、 より大なるものが生れ、 より大なるものより、 より小なるものが生れ、 より新しきものより、 より古きものが生れ、 より古きものより、 より新しきものが生れ、 弥栄し、 一つの太陽が二つとなり、 三つとなり、 更には一つとなることを理解しない。 月より地球が生れ、 地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、 最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。 これは外部的なる智によらず、 内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。 新天新地新人はかくして、 生れ、呼吸し、弥栄える。 しかし、新人と生れ、 新天新地に住むとも、 その以前の自分の総ては失わない。 只その位置を転換されるのみである。 地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、 その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。 その状態よりも尚一層、 そのままであって何等の変化もないと思える程である。 蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、 それは大いなる喜びである。 d 何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、 大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。 総てのものは歓喜に向かい、 歓喜によって行為する。 歓喜がその目的であるが故に、 歓喜以外の何ものも意識し得ない。 故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、 真理はなく、 生命はない。 生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、 地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、 弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。 歓喜は行為となる。 行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。 只考えたり意志するのみでは萌え出でない。 生命しない。 只意志するだけで行為しないことは、 まことに意志することではない。 霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。 地上人にありては物質によりて物質の中に、 その意志を行為することによって始めて歓喜となり、 形体を為し弥栄えるのである。 生前の霊界は、 愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、 その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、 その段階に於て、 その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、 霊人の各々は、 自らの歓喜にふさわしい所に集まり、 自ら一つの社会を形成する。 自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。 否、苦しくて住み得ないのである。 若しその苦に耐え得んとすれば、 その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。 例えば、愛の歓喜に住む霊人は、 その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、 同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。 故に、生前の世界では、 自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。 山も川も家も田畑も、 そこに住む霊人たちも、 動物も植物も鉱物も、 総て自分自身と同一線上にあり、 同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、 それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。 自分は他であり、 他は自分と感覚する。 故に、その性質は生後にも続き、 地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。 しかし、地上世界は、物質的約束によって、 想念のままには動かない。 死後の世界もまた生前と同様であるが、 一度 物質世界を通過したものと、 しないものとの相違が生じてくるのである。 だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、 霊は永遠性をもつが、 霊的角度から見れば永遠性はもたない。 しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、 永遠から永遠に弥栄してゆくものである。 而して、永遠性をもつ事物は、 地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。 無は有を無化せんとし、 有は無を有化せんとし、 その融合の上に生命が歓喜するのである。 無は有を生み、 有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。 地震の巻 第08帖 (385)
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同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。 霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、 そのままにして通ずるのである。 しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。 それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。 またその語ること、その語音によって、 その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。 即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。 霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、 その表現は相違している。 故に、霊人と地上人と会話する時は、 霊人が地上人の想念の中に入るか、 地上人が霊人の想念に和するか、 その何れかでなくてはならない。 しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、 その内蔵するものが極めて深く広いが故に、 霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、 その霊人が高度の霊人であればあるだけに、 その度を増してくるのである。 原因と結果とを一つにし、 更に結果より生ずる新しい原因も、 新しい結果をも同時に表現し、 なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、 且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、 行為し、生命するからである。 言葉そのものが弥栄であり、 生命である。 また総てであるということは、 地上人には理解できぬであろう。 それは、過去が現在であり、 未来もまた現在であり、 更に生前も、生後の立場においては生後であり、 死後の立場においては死後である。 また一里先も、 百里先もまた千万里はなれていても、 同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。 だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、 理解することは困難であるが不可能ではない。 霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、 神の言葉でもあるが、 その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。 歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、 善的内容を多分に蔵している。 故に、柔らかくして連続的であり、
太陽の また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、 智的内容を多分に蔵している。 故に、清く流れ出でて連続的ではなく、 或る種の固さを感じさせる。 そしてそれは月の光と、 水の如き清さとを感じさせる。 また前者は曲線的であって消極面を表に出し、 後者は直線的であって積極面を表に出している。 また前者は愛に住するが故に、 主としてOとUの音が多く発せられ、 後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。 そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、 またそれを感得し得る能力をもっている。 しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の≠なすものであって、 地上人よりすれば、言葉そのものとしては、 感得し得ないことを知らねばならないのである。 霊界に於ける音楽もまた同様であって、 愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、 曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、 直線的である。 それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、 各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。 またこれら霊人の言葉は、 天的の韻律をもっている。 即ち愛を主とするものは、 五七七律を、 真を主とするものは、 三五七律を主としているが、 その補助律としては、 千変万化である。 言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、 その完全、弥栄を示すものであって、 律の不安定、不完全なものは、 正しき力を発揮し得ず、 生命力がないのである。 地震の巻 第11帖 (388)
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肉体からではない。 霊的な内奥の自分からである。 この内奥の自分は、神につながっている。 故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、 自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。 其処に、人が地上に於ける司宰者たる、 また、たり得る本質がある。 地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、 地上にあった時と同様に意識があり、 同様の感覚がある。 これによって、人の本体たる霊は、 生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、 生活することが出来るのである。 しかし肉体をすてて、霊体のみとなり、 霊界で活動するのであるから、 物質は衣にすぎないことが判明する。 肉体をもっている地上人の場合は、 その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。 霊界に入った時は、 霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。 また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。 霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。 この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、 生前も、生存中も、死後も、また同様である。 肉体の呼吸と脈拍とは、 新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、 死の直後に霊体が完全するまでは、 肉体のそれは停止されないのである。 かくて、霊界に入った霊人たちは、 総て生存時と同じ想念をもっている。 為に死後の最初の生活は生存時と殆ど同一であることが判明するであろう。 故に、其処には地上と同様、あらゆる集団と、 限りなき段階とが生じている。 而して、霊界に於ては、先に述べた如き状態であるが故に、 各人の歓喜は、死後の世界に於ても、 生前の世界に於ても、 これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。 この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。 人間が、物質界にいる時は、 それに対応した物質の衣、即ち肉体をもち、 霊界に入った時はそれに相応した霊体をもつ。 そして、それはまた完全なる人間の形であり、 人間の形は、霊人の形であり、 神の形であり、 更に大宇宙そのものの形である。 大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、 目も、鼻も、口も、耳もあり、 又内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、 常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。 大歓喜は無限であり、 且つ永遠に進展して行くのである。 変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。 歓喜は心臓として脈打ち、 肺臓として呼吸し発展する。 故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。 この二つは、あらゆるものに共通であって、 植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。 人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。 これはもはや心臓と表現するには あまりにも精妙にして、 且つ深い広い愛であり、 肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。 而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。 それは心臓としての脈拍でもなく、 肺臓としての呼吸でもない。 表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、 二つであり、三つの現われである。 其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、 即ち、大神より直流し来るものを感得し、 それを行為し得る独特のものを有しているのである。 人間が、一度 死の関門をくぐり、 肉体をすてた場合は、 霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、 それは直ちに変化するものではなくして、 漸次その状態に入るのである。 第一は極外の状態、 第二は外の状態、 第三は内的状態、 第四は極内的状態、 第五は新しき霊的生活への準備的状態である。 七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、 三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。 地震の巻 第16帖 (393)
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故に、戒律はない。 戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。 天国の政治は、愛の政治である。 政治する政治ではない。 より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。 故に、与える政治として現われる。 天国は、限りなき団体によって形成されている。 そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、 最内奥の歓喜によりなされるのである。 統治するものは一人であるが、 二人であり、 三人として現われる。 三人が元となり、
その中心の一人は、
他の二人は、
統治者の心奥の
更に内奥に位する
統治され、立体
天国では、この 歓喜の根元をなしている。 スの神は、アの神と現われ給い、 オとウとひらき給い、 続いて、エとイと動き現われ給うのである。 これが総体の統治神である。 三神であり、二神である。 ア、オ、ウは愛であり、 エ、イは真である。 これら天国の組織は、人体の組織と対応し、 天国の一切の事象と運行とは、 人体のそれに対応している。 オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。 エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。 これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。 よりよく奉仕するのみである。 奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、 善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、 これらの総てを神の力として生かし、 更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。 また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、 他の善と真とを先とし、 その歓喜を先ずよろこび、 己はその中にとけ入る。 故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、 団体の歓喜となるのである。 指令することは、戒律をつくることであり、 戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。 天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、 更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。 一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、 前記の如き原則を体している。 またその家族たちは、主人の働きを助け、 主人の意を意として働く。 その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。 即ち、歓喜の政治であり、 経済であり、生活であり、信仰である。 天国に於ける天人、霊人たちは、 常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。 歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、 より高き歓喜に進んで行くことである。 けれども、天国における礼拝は、 地上人のそれの如き礼拝ではない。 礼拝生活である。 総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。 与えられたる仕事を礼拝し、 仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。 故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。 しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。 地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、 天国に於ける礼拝は、千変万化で、 無限と永遠に対するものである。 無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、 その弥栄が神の用である。 森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、 この無限と永遠を知り、 あらゆる形において変化繁殖するを見て、 無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。 天国の政治は、光の政治である。 天国にも地上の如く太陽があり、 その太陽より、光と、熱とを発しているが、 天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。 一は月球の如き現われ方である。 一は火の現われ、火の政治であり、 一は水の現われ、水の政治である。 愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、 智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。 月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、 各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、 神は常に光と熱として接し給うのである。 またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。 光と熱とは、太陽そのものではない。 太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、 その内奥はいずれも大歓喜である。 光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。 このことをよく理解するが故に、 天国の政治は、常に光の中にあり、 また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。 天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、 その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、 現われ出たものが真と見え、 愛と感じられるのみである。 太陽の内奥は大歓喜が存在する。 故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、
遥かにそれらを超越した歓喜の
この歓喜の 多くの天人、天使たちには感じられるのである。 歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、 また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。 地震の巻 第19帖 (396)
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