良い宇宙人と悪い宇宙人,宇宙の真相, The Earth is Controlled by Evil Alien


NO3277


食で検索NO3 


全大宇宙は、神の外にあるのではなく、

神の中に、神に抱かれて育てられているのである。

故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、

同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。

過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、

生前も死後の世界もまた神の中にあり、

地上人としては地上人の中に、

霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、 生長している。

故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。

部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。

故に、歓喜が生ずる。

本質的には、善と真は有であり、

悪と偽は影である。

故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。

影なるが故に悪は善に、

偽は真に働き得ない。

悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。

悪は総てを自らつくり得、

生み得るものと信じている。

善は総てが神から流れ来たり、

自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。

故に、悪には本来の力はなく、

影にすぎない。

善は無限の力をうけるが故に、

益々弥栄する。

生前の世界は有なるが故に善であり、

死後の世界も同様である。

生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。

生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、

それは、悪因縁的には現われない。

そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。

悪因縁が悪として、

また善因縁は善として、

生後の地上人に現われるのではない。

何故ならば、大神は大歓喜であり、

三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。

地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、

悪と感覚し、

偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、

それは何れもが弥栄である。

これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、

そこには地獄的なものはあり得ない。

川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。

要するに、生前には、地獄がなく、

生後にも、死後にもまた地獄はないのである。

この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、

更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。

しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。

本来なきものをつくり出し、

一を二にわける。

だが、分けることによって力を生み弥栄する。

地獄なきところに天国はない。

天国を思念する処に地獄を生ずるのである。

善を思念するが故に、悪を生み出すのである。

一あり二と分け、はなれてまた、

三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。

即ち、一は二にして、

二は三である。

生前であり、生後であり、

死後であり、尚それらの総てはである。

でありであり、と集約される。

故に、これらの総ては無にして有である。

人の生後、即ち地上人の生活は、

生前の生活の延長であり、

また死後の生活に、

そのままにして進み行く、

立体となり、

立々体と進み、

弥栄する処につきざる歓喜があり、

善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、

一の段階より二の段階へ、

更に三の段階へと弥栄浄化する。

浄化、弥栄することにより、

善悪美醜のことごとくは歓喜となる。

故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。

悉くの行為が批判され、

賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、

以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。

歓喜に審判なく、

神に戒律はない。

戒律は弥栄進展を停止断絶し、

審判は歓喜浄化を裁く。

このことは神自らを切断することである。

裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、

すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。

行為は結果である。

思念は原因である。

原因は結果となり、

結果は只、結果のみとして終らず、

新しい原因を生む。

生前の霊人は、生後の地上人を生む。

地上人は死後の霊人を生み、

死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。

となりて廻り、

極まるところなくして弥栄える。

以上述べた処によって、

これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。

されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。

これは只、霊人や地上人のみではない。

あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、

その極内より極外に至るのみ。

故に地上世界の悉くは生前世界にあり、

且つ死後の世界に存在し、

これらの三は極めて密接なる関係にあり、

その根本の大呼吸は一つである。

生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。

地上に於ける総ては、

そのままにして生前なるが故に、

生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、

地上そのままの生活がある。

地上人、地上生活を中心とすれば、

生前、死後は映像の如く感覚されるものである。

しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。

時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、

以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

地震の巻 第05帖 (382)

使用さされた特殊文字   


生前の世界に、霊人が生活している。

山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。

しかし、それは最初からのものではない。

それらの元をなすが歓喜していた、 そのが生後、地上世界にうつされて、

地上的約束の下に生長し、

秩序されたがため、

その結果が、死後の世界につづき、

死後の世界の様相はの原理によって、

生前世界に移行して、

生前的に進展し、弥栄し、

そのを幾度となく繰り返すうちに、

漸次、内的に向って弥栄する面と、

外的、地上的に進むと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄すると、

その各々が各々の立場に於て、

すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、

全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。

而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、

遠ざかりつつ生長する。

また、生命の大歓喜として湧き出ている。

故に、地獄にあらざる地獄的霊界、

天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、

霊人により育てられると同時に、

人々により生み、

人々により育てられ、

歓喜されるのである。

かく弥栄進展するが故に、

人類も霊人類も、

各々その最後の審判的段階に入る迄は、

真の三千世界の実相を十分に知り得ない。

故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。

新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。

この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、

何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、

同一のものではない。

より小なるものより、より大なるものが生れ、

より大なるものより、より小なるものが生れ、

より新しきものより、より古きものが生れ、

より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、

一つの太陽が二つとなり、三つとなり、

更には一つとなることを理解しない。

月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、

最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。

これは外部的なる智によらず、

内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。

新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。

しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、

その以前の自分の総ては失わない。

只その位置を転換されるのみである。

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、

その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。

その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。

蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、

それは大いなる喜びである。

何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、

大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。

総てのものは歓喜に向かい、

歓喜によって行為する。

歓喜がその目的であるが故に、

歓喜以外の何ものも意識し得ない。

故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、

真理はなく、生命はない。

生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、

地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、

弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。

歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。

只考えたり意志するのみでは萌え出でない。

生命しない。

只意志するだけで行為しないことは、

まことに意志することではない。

霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。

地上人にありては物質によりて物質の中に、

その意志を行為することによって始めて歓喜となり、

形体を為し弥栄えるのである。

生前の霊界は、

愛の歓喜、

真の歓喜、

善の歓喜、

美の歓喜

の四段階と、

その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、

その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、

霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、

自ら一つの社会を形成する。

自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。

否、苦しくて住み得ないのである。

若しその苦に耐え得んとすれば、

その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、愛の歓喜に住む霊人は、

その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、

幾万人かの集団の中に住み、

同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。

故に、生前の世界では、

自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、

自分と調和する。

山も川も家も田畑も、

そこに住む霊人たちも、

動物も植物も鉱物も、

総て自分自身と同一線上にあり、

同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、

それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。

自分は他であり、他は自分と感覚する。

故に、その性質は生後にも続き、

地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。

しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。

死後の世界もまた生前と同様であるが、

一度 物質世界を通過したものと、

しないものとの相違が生じてくるのである。

だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。

物質は物質的には永遠性をもたず、

霊は永遠性をもつが、

霊的角度から見れば永遠性はもたない。

しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、

永遠から永遠に弥栄してゆくものである。

而して、永遠性をもつ事物は、

地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。

無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、

その融合の上に生命が歓喜するのである。

無は有を生み、

有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。

地震の巻 第08帖 (385)

使用さされた特殊文字 


霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。

故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。

住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。

霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、

と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。

と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。

また、内分を同じくする霊人たちは、

相集まり、住宅は互に並び建てられており、

地上に於ける都会や村落とよく似ている。

その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。

そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、

地上世界に、それの写しがあるのである。

霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、

地上人の世界である。

地上人は、物質を中心として感覚し、

且つ考えるから、真相が中々につかめない。

これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、

霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。

また天人の衣類も、

その各々がもつ内分に正比例している。

高い内分にいる霊人は高い衣を、

低いものは低い衣を自らにして着することとなる。

彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。

理智に対応すると云うことは、

真理に対応すると云うことになる。

但し、最も中心に近く、

太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。

この境地に到れば、総てが歓喜であり、

他は自己であり、

自己は他であるが故である。

しかし、他よりこれを見る時は、

見る霊人の心の高低によって、

千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。

また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。

霊人はまた、いろいろな食物を食している。

云う迄もなく霊人の食物であるが、

これまたその霊人の状態によって千変万化するが、

要するに歓喜を食べているのである。

食べられる霊食そのものも、

食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。

地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、

霊人は口のみでなく、

目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。

そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、

融け合い、一つの歓喜となることである。

霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、

食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。

これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、

その歓喜の度合および表現には大きな差がある。

食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、

神から神を与えられるのである。

以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、

食べているのか、食べられているのか判らない程である。

また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。

現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、

同類である動物性のものは好まない。

何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。

霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、

返って不快となるからである。

そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。

そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。

すべての善はより起り、にかえるのと同様、

総ての悪もまたより起りにかえる。

故に、神をはなれた善はなく、

また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。

殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、

地上人たり得るのであって、

悪をとり去るならば、

地上人としての生命はなく、

また善は無くなるのである。

この悪を因縁により、

また囚われたる感情が生み出す悪だ、

と思ってはならない。

この悪があればこそ、

自由が存在し、生長し、弥栄するのである。

悪のみの世界はなく、

また善のみの世界はあり得ない。

所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。

地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。

地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。

その平衡するところに力を生じ、生命する。

しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、

すべてのもののが与えられると見えるものである。

これを、直接内流と称し、

この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、

真理となる。

また、愛より入るときは善となり、

信仰力となって現われる。

そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。

故に、永遠する生命は愛と離れ、

真と離れ、

また信仰とはなれてはあり得ないのである。

神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。

法則とは歓喜の法則である。

神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。

これは、地上人として生れ出ずる生前から、

また、死後に至るも止まざるものである。

神は、左手にての動きをなし、

右手にての動きを為す。

そこに、地上人としては割り切れない程の、

神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。

地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、

また、悪、偽に導かれる。

この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。

その平衡が、神の御旨である。

平衡より大平衡に、

大平衡より超平衡に、

超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。

左手は右手によりて生き動き、栄える。

左手なき右手はなく、右手なき左手はない。

善、真なき悪、偽はなく、

悪、偽なき善、真はあり得ない。

神は善、真、悪、偽であるが、

その新しき平衡が新しき神を生む。

新しき神は、常に神の中に孕み、

神の中に生れ、神の中に育てられつつある。

始めなき始めより、

終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。

地震の巻 第15帖 (392)

使用さされた特殊文字  


地獄はないのであるが、

地獄的現われは、

生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。

しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、

真実の地獄ではない。

大神は大歓喜であり、

人群万類の生み主であり、

大神の中に、すべてのものが生長しているためである。

死後、一先ずおかれる所は、

霊、現の中間の世界であり、

其処では中間物としての中間体をもっている。

意志のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意志と、理解との結合によって弥栄する。

このことは、中間の状態、即ち、死後の最初の世界に於て、

何人もはっきりと知り得る。

しかし、生存時に於て、既に過去を精算している霊人は、

この中間世界にとどまる必要はなく、

その結果に対応した状態の霊界に、

直ちに入るのである。

精算されていないものは、

精算が終るまで、この中間世界にとどまって努力し、

精進、教育される。

その期間は五十日前後と見てよいが、

最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。

この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、

光明にみたされている。

故に、何人も、この世界へ進み易いのである。

また、地獄的な世界は暗黒に満たされている故に、

この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、

極めて進みにくいのである。

天国には昇り易く、

地獄にはおち難いのが実状であり、

神の御意志である。

しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進みゆくものもあるのであって、

そのものたちには、それがふさわしい世界なのである。

其所(そこ)に、はかり知れない程の大きく広い、

神の世界が展かれている。

この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、

それは比較から来る感じ方であって、

本質的に暗黒の世界はなく、

神の歓喜は限りないのである。

以上の如く、中間世界からは、

無数の道が無数の世界に通じており、

生前から生後を通じて、

思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれてくるのである。

否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、

他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。

故に、迷うことなく、

自分の道を自分で進み、

その与えられた最もふさわしい世界に落ち付くのである。

他から見て、それが苦の世界、

不純な世界に見えようとも、

当の本人には楽天地なのである。

何故ならば、一の世界に住むものには、

二の世界は苦の世界となり、

二の世界に住むものには、

一の世界は また苦の世界と感覚するからであって、

何れも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。

また一の世界における善は、

二の世界では善でなく、

あなた 二の世界の真が一の世界に於ては真でない場合も生じてくる。

しかし、その総ての世界を通じ、

更に高きに向って進むことが、

彼等の善となるのである。

は中心であり、

大歓喜であり、

神である。

死後の世界に入る時に、

人々は先ず自分の中の物質をぬぎすてる。

生存時に於ては物質的な自分、即ち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、

そのものが生命し、

且つ自分自身であるかの如くに感ずるのであるが、

それは自分自身の本体ではなく、

外皮に過ぎない。

生長し、考慮し、行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。

霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。

故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。

しかし、肉体をすてて霊界に入ったからと云って、

物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。

死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係におかれる。

何故ならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。

生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界の何れもが不離の関係におかれて、

互に呼吸しあっている。

例えば、地上人は生前世界の気をうけ、

また死後の世界に通じている。

現実世界で活動しているのが、

半面に於ては生前の世界とも、

また死後の世界とも深い関連をもっており、

それらの世界に於ても、

同時に活動しているのである。

地震の巻 第17帖 (394)

使用さされた特殊文字 


今の政治はむさぶる政治ぞ、

神のやり方は与へぱなしざぞ、

(ウズ)ぞ、

マコトぞ。

今のやり方では世界は治まらんぞ、

道理ぢゃなあ。

天にはいくらでも与えるものあるぞ、

地にはいくらでも、どうにでもなる、

人民に与へるものあるのざぞ、

おしみなく、くまなく与えて取らせよ、

与へると弥栄へるぞ、

弥栄になって元に戻るのざ、

国は富んで来るぞ、

神徳 満ち満つのぢゃ、

この道理判るであらうがな。

取り上げたもの何にもならんのぢゃ、

ささげられたものだけがまことじゃ、

乗るものも只にせよ、

田からも家からも税金とるでないぞ、

年貢とりたてるでないぞ、

何もかも只ぢゃ、

日の光見よ、

と申してあらうが、

黄金(きん)はいらんと申してあろが、

暮しむきのものも只でとらせよ、

只で与へる方法あるでないか、

働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、

理屈は悪ぢゃ、

悪魔ぢゃ、

働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、

与へる方法あるでないか、

働かんでも食べさせてやれよ、

何もかも与へぱなしぢゃ、

其処に神の政治始まるのぢゃぞ、

神の経済あるのぢゃ。

やって見なされ、

人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、

この方の申す様にやって見なされ、

お上は幸でうもれるのぢゃ、

余る程与へて見なされ、

お上も余るのぢゃ、

此の道理判りたか。

仕事させて呉れと申して、

人民 喜んで働くぞ、

遊ぶ者なくなるぞ、

皆々神の子ぢゃ、

神の魂うゑつけてあるのぢゃ、

長い目で見てやれ、

おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。

むさぶると悪になって来るのぢゃ、

今のさま見て改心結構ぞ、

そろばん捨てよ、

人民 神とあがめよ、

神となるぞ、

泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、

元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。

六月十七日、

かのととりの日、

ひつくの神。

光の巻 第03帖 (399)

使用さされた特殊文字 


五つに咲いた桜花、

五つに咲いた梅の花、

どちら採る気ぢゃ。

今迄の教ではこの道判らんぞ、

益々食ふ物なく曇りてくるぞ、

その国その所々で当分暮しむき出来るぞ、

野見よ、森見よと申してあろ、

青山も泣き枯る時来ると申してあろ、

海川も泣き枯る時来るぞ、

まだきかず我さへよけらよいと、

我れよしして御座る人民神々様 気の毒来るぞ、

今迄は神も仏も同じぞと申してゐたが神と仏とは違ふのざぞ、

十(かみ)の動くが卍(ほとけ)ぞ、

卍の動くが(か三)ぞ、

の澄みきりが(おおかみ)ぞ、

神と仏と臣民とは違ふのぢゃぞ。

八月八日、

一二

マツリの巻 第01帖 (405)

使用さされた特殊文字  


この神示 食物(くいもの)に仕様とて出て来る者 段々にあるなれど、

皆あて外れて了ふぞ、

アテ外れて神の目的成るぞ、

役員殿ブチョウホウない様に気つけて呉れよ、

まつり結構。神が預けてあるものは、

あづかった人民よきに取りはからへよ、

大き小さいの区別ないぞ、

塵一本でも神のものざと申してあろが、

塵一本動かすに一々神の心聞いてやって居るとは云はさんぞ、

預けるには預けるだけの因縁あるのざぞ、

預かった人民よきにせよ、

奥山 何処へ移ってもよいと申してあろがな、

神の道 弥栄々々。

十月十三日、

ひつ九の神。

梅の巻 第04帖 (431)


日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、

作らしてあるのぢゃぞ、

日本人には肉類禁物ぢゃぞ。

今に食物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ、

今度は共喰となるから、

共喰ならんから、

今から心鍛へて食物大切にせよ、

食物おろがむ所へ食物集まるのぢゃぞ。

ひたすらに神にすがりてお詑びせよ、

それより他に今は道なし。

外国を日本の地面にせなならん、

日本とにほんと取違ひすな。

何事も神第一ぞ、

神よそになすこと云ふことスコタンばかりぢゃ。

分け隔てあると思ふは我が心に分け隔てあるからぢゃぞ、

世界中のそれぞれの国、皆、氏神様、産土様、愈々天の命令通りにかかり下されよ、

もう待たれん事に時節参りて居るぞ、

世界の人民 皆泥海の中に住んでゐるのぢゃぞ、

元の水流して清めてやらねばならんなり、

泥水を泥水と知らずに喜んでゐるので始末に困るぞ、

清い水に住めん魚は誠の魚ではないのぢゃぞ。

つらい役は因縁のミタマに致さすぞ。

心得なされるがよいぞ。

十一月十七日、

ひつ九のかミ。

梅の巻 第14帖 (441)



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