神の御業来しと、思へる時ぞ神国の、まこと危き時なるぞ
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(12月30日) ロックです。 今日立ち読みした経済新聞の記事によるとスマトラ 地震の経済支援額は最大級の物になり そうだということですが、 日月の巻第三十八帖(211)を見ますと、以下のようでした。
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大きアジアの国々や、島々八十の人々と、 手握り合ひ神国の、光輝く時来しと、 皆喜びて三千年、 神の御業来しと、思へる時ぞ神国の、 まこと危き時なるぞ、 夜半に嵐のどっと吹く、 どうすることもなくなくに、 手足縛られ縄付けて、 神の御子等を連れ去られ、 後には老人不具者のみ、 女子供もひと時は、 神の御子たるひと時は、 いよいよ暗い臭い屋に、 暮らさなならん時来るぞ、 宮は潰され御文皆、 火にかけられて灰となる、 この世の終り近づきぬ。 この神示心に入れ呉れと、 申してある事わかる時、 いよいよ間近になりたぞよ。 出掛けた船ぞ、 褌締めよ。 十一月三十日、 ひつ九のか三
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手握り合ひが支援のことかな(''? まだ視野狭い? 書かれた時期は昭和十九年ですから、 第二次世界大戦開始から三年目、次の年には終戦です。 911から三年目は今年ですね。 来年は型示のように終戦? 出掛けた船の例えは義民宗吾を渡らせた印旛沼の渡し船を意識したものでしょうか? 太陽さんが対応に出られることの暗示かも。
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年配の方だったら誰もが知っている 佐倉宗吾は本名を木内惣五郎といい、 公津村(成田市公津)の名主総代でした。 宗吾は凶作と重税に苦しむ農民のため、 承応元年(1652)、 江戸に出て将軍への直訴(じきそ)を決行しましたが、 直訴ご法度の罪でその場で縄を打たれてしまいました。 翌承応2年、4人の子どもとともに刑場の露と消えて果てました。 しかし佐倉領内389カ村の農民は宗吾の徳を忘れることなく、 ひそやかながらお参りが続けられてきたといいます。 その伝統が宗吾霊堂のお待夜祭に引き継がれています。 今でも宗吾の命日の前日である9月2日には宗吾を偲んで 通夜のお籠りが行われています。 明治になって廃藩置県が行われ佐倉藩に遠慮することなく、 宗吾霊堂で祀られるようになりました。 宗吾霊堂本堂の裏手にある宗吾御一代記館(入場有料)では、 義民宗吾の物語を人形ディオラマで展開しています。
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